琉球新報ほか、沖縄のマスメディア関連の資料を掲載します。
※令和05(2023)年1月19日、一部記事を削除し、関連リンクを挿入しました。あと読者の弁を図るべく、記事レイアウトも変更済です。今後、沖縄マスメディア関連の資料は、新規の記事として当ブログにてアップするのでご了承ください。
琉球新報ほか、沖縄のマスメディア関連の資料を掲載します。
※令和05(2023)年1月19日、一部記事を削除し、関連リンクを挿入しました。あと読者の弁を図るべく、記事レイアウトも変更済です。今後、沖縄マスメディア関連の資料は、新規の記事として当ブログにてアップするのでご了承ください。
今回は、すこし横道にそれますが前回の記事に貼り付けしたアイキャッチ画像について説明します。撮影時期と場所は不明ですが明治時代から昭和にかけての女子学生の服装の変遷がハッキリわかる貴重な写真です。
写真は「那覇百年のあゆみ、那覇市企画部市史編集室、昭和55年刊行」から抜粋したもので、写真右から順に明治→大正→昭和の順になっています。「那覇市百年のあゆみ」の説明文を参考に女生徒の服装の移り変わりを説明します。
前回ハジチの慣習が廃れた理由の一つに明治32(1899)年に施行された入墨禁止令がきっかけで沖縄県内からハジチセークが激減したことを挙げました。今回はもう一つの理由として女子教育の普及について述べます。
沖縄における女子教育は男性に比べるとだいぶ遅れてスタートします。ブログ主が確認できた最初の記録は明治19(1885)年に那覇市西町にあった師範学校付属小学校に女性徒3名が入学した件です。(那覇百年の歩み、那覇市企画部史編集室、昭和55年発行より確認)