昭和23(1943)年の瀬長亀次郎さんの活動に関しての(現時点で蒐集した)史料をアップします。前回同様分量が多いので解説は後日改めて掲載します。今回の史料で興味深いのは、アメリカ世の立法院の時代における名議長で名高い長嶺秋夫氏(1908~2002)の政界デビューに瀬長さんが関わっていたことです。読者の皆さん是非ご参照ください。
人物
とある Wikipedia の説明文について
瀬長亀次郎さんの Wikipedia に関して、以下の記述があります。
史料 昭和22年の瀬長亀次郎さんの消息
昭和22(1947)年の瀬長亀次郎さんの活動に関しての(現時点で蒐集した)史料をアップします。今回は分量が多いので解説は後日改めて掲載します。『琉球新報80年史』からの抜粋に関しては、当時のうるま新報の様子を知る上で重要なので、読者の皆さん是非ご参照ください。
琉球・沖縄の歴史上最も偉大な女性の思い出話
先日ブログ主は沖縄県立図書館において、昭和7(1932)年に琉球新報に掲載された『あの頃を語る』の記事を閲覧中に、ずっと探していた安村つる子女史(1881~1943)の思い出話を見つけることができました。安村つる子(旧姓久場ツル)さんは明治14(1881)年首里にうまれ、沖縄初の女性教員として首里尋常高等小学校に勤務、琉球・沖縄の歴史上初めて学業によって身を立てた女性です。実はそれだけではなく、安村女史は
理論と理屈の違い
先日、沖縄県立図書館(にしか貯蔵されていない)の『又吉康和追悼録』を始めて読んだところ、面白い話を見つけましたので紹介します。追悼録には千原繁子さん(沖縄初の女性医師、1898~1990)の追悼文が掲載されていましたが、その中に又吉さんが千原さんを諭す箇所がありました。
史料 瀬長亀次郎氏の消息(昭和20年)
今回はブログ主が蒐集した昭和20(1945)年の瀬長亀次郎氏の消息を掲載します。今後新しい情報を確認次第、改めて追記することにしますが、現時点でブログ主がチェックしたところの瀬長さんの動きは大まかに纏めると、
瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~学歴詐称の疑い
ここ数日間、ブログ主は昭和20年から25年にかけての瀬長亀次郎さんの経歴をチェックしていましたが、沖縄公文書館が Web 上で公開している文書のなかに面白い資料を見つけましたので掲載します。
琉球政府文書 – 政党に関する書類(1)結成届け、綱領、会計報告のページで、沖縄人民党関連の資料が公開されていますが、その中の 108㌻以降、1949年11月2日付、沖縄人民党中央委員会が沖縄知事志喜屋孝信(しきや・こうしん)宛てに提出した『政党に関する報告』の中の役員名簿を見たときに、ブログ主は「えっ??」と思った記述がありましたので、画像を貼り付けます。
史料 又吉康和氏の「自治尚早論」
今回は又吉康和(またよし・こうわ 1887~1953)氏の「自治尚早論」の全文を掲載します。先ず又吉氏のプロフィールを『沖縄大百科事典』から抜粋しますのでご参照下さい。
史料 松原多摩喜氏の回顧録から
ここ最近ブログ主は、瀬長亀次郎さんに関する記述をいろいろ調べているうち、面白い情報をいくつか発見しました。今回アップするのは瀬長さんの七高時代の恩師、松原多摩喜氏の回顧録『七高在職十七年の好ましくない思い出と自身の失敗の数々』から史料を掲載します(この文章は安仁屋政昭著 『沖縄の無産運動』 からの抜粋です)。
この文章は、おそらく瀬長さんが那覇市長を追放され、その後民連(民主主義擁護連絡協議会)で議長を務めた1958年あたりに書かれたと思われます。七高時代の瀬長さんは、アカの道に進んだことが父親にばれて、送金を停止されて大変困っていました。そこで現在の窮状を当時の担任であった松原氏に相談します。そのような背景があった点を頭に入れて松原氏の回顧録をご参照下さい。
瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~高嶺朝光さんの証言
今回は高嶺朝光(たかみね・ちょうこう)さんの著書『新聞五十年』から、戦前の瀬長亀次郎さんに関する記述を掲載します。瀬長さんはたしか昭和6年(1931)に共産党に入党、本土で労働組合活動中に検挙され、3年の懲役刑を受けます。そのうち1年は沖縄刑務所に服役して、出所後は県の工業指導書で蒔絵職人として働きます。
瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~恩知らずカメジローの巻
前回の記事で瀬長亀次郎さんが中国戦線から復員した昭和15年(1940)以降、平良辰雄さん(1892~1969)のお世話になっていたことを記述しました。その縁があって、沖縄戦終了後の捕虜収容所の時代(田井等)においても瀬長さんは平良辰雄さんの下で再び働くことになります(平良辰雄さんは収容所の市長に就任、瀬長さんは庶務課長として勤務しています)。
カリスマの担い手としての瀬長亀次郎さんの役割
前回、瀬長亀次郎さんが大東亜戦争の際に “翼賛壮年団” に加入していた件について記述しました。この事実は瀬長さんの回想録や『沖縄人民党の歴史』あるいは瀬長フミさんの回想録『熱い太陽のもと激動の島に生きる』など関連著作には一言も記述がありません。つまり黒歴史として抹殺されているのですが、瀬長さんの生き様を振り返るとやむを得ないかなと思います。その理由は彼が “カリスマ的指導者” として人民党を率いていたからです。
瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと
2017年8月12日に佐古忠彦監督、TBSテレビが製作したドキュメンタリー『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』が公開されました。ちなみにブログ主はこの映画は未だ見ていませんが、その間に『瀬長亀次郎回回想録』など瀬長さん関連の書籍をいろいろチェックしていました。
瀬長さんのキャッチフレーズである「不屈」は人民党が結成した昭和22年(1947)から日本共産党に合流する昭和48年(1973)の間に好んで使っていた言葉で、現在もそのイメージが強いのですが、ブログ主がいろいろ調べているうちに瀬長さんが決して口外しないワードが複数あることに気がつきました。それは現時点で確認できたのが3つあって
明治29年4月20日の女子講習科の入学試験
今回はブログ主が確認した限りですが、おそらく歴史上初の女子に対する選抜入試試験の内容を紹介します。
琉球・沖縄の歴史において女子が小学校へ入学したのは明治18(1885)年ですが、それから11年後の明治29(1896)年に女子講習科(速成の女子教員養成学校)の選抜入試試験が行われます。その内容が非常に興味深いので今回ブログで公開します。
太田朝敷関連の史料
太田朝敷関連の史料まとめです。史料は随時追加します
※令和05(2023)年1月15日、ブログの大整理のため、当ページの誤字脱字の訂正、レイアウト変更、および資料を追加します。今回のチェックで興味深いのが、「おおた姓」の表記に関して、大正5(1916)と昭和12(1937)の資料では「大田」と表記されている点です。ちなみに、昭和5(1932)年に刊行された『沖縄県政五十年』では「太田」と名乗っているため、案外当時はどっちでも良かったのかもしれません。
ちなみに、旧漢字は読者の便を図るべく訂正済なので、原文は引用元リンク先でご確認いただけると幸いです。