公同会運動の考察 その6

seibu_kamekawa

ここまで1896年(明治29)に元王族が中心となって公同会という政治結社を設立する時代背景について説明しました。予想通りの長い展開になりましたが、この件はやはり調べれば調べるほど複雑怪奇な内容で、現時点のブログ主のレベルではちょっと厳しいかなという状態です。

問題をややこしくしている点は、まず頑固党にも複数の派閥があることです。現在の歴史書に記載されている白頑(頑固党白派)や黒頑(頑固党黒派)や開化党の区分けは、西村捨三(第四代沖縄県知事)一木喜徳郎氏が提案した分類方法に準拠しているのですが、実際には白派にもまた2つ派閥があって、黒派に近い白派や、明治政府に対して面従腹背で時が来るのを待つ穏便派など、内部で熾烈な派閥争いがあったのです。

黒頑(頑固党黒派)は廃藩置県後に頭領である亀川盛武(かめかわ・せいぶ)が転向したらしく、その後は東風平の大ボス義村朝明(よしむら・ちょうめい)や脱清した津嘉山朝功(つかやま・ちょうこう)などが頭領として黒派を指導します。ただし彼らは琉球王国の国体を復活させることを最優先に考え、清国に専属して国王は尚家でなくてもいいと主張します。そのため「王家の存続」を最優先に考える白派とはそりが合わないし、多数の琉球士族からも支持されない状態でした。

当時の沖縄社会の勢力を複雑怪奇にしている最大の原因は尚家の存在です。開化党にも頑固党白派にも黒派にも尚家が関わっていて、しかも中城御殿に集結している頑固党の多数は黒派だったのです。実際に尚家は脱清人に対して何らかの使命を託している形跡がありますし(知花朝章の脱清)、その反面第一回県費留学生であった太田朝敷、高嶺朝教らを束ねて琉球新報社を設立して、開化党の拠点として活動を支援しています。

極めつけは日清戦争終結後に、明治天皇から爵位を授与されて目出度く日本の華族に列した尚寅・尚順の2人が発起人になって政治結社を創設し、沖縄に特別制度を施行する運動を開始したことです。この運動は沖縄県知事として赴任した奈良原繁氏に対する明白な反逆行為で、しかも奈良原知事が設立に尽力した琉球新報社が公同会運動を推進する始末、奈良原知事としては怒り狂う以前に理解不能の境地に陥ったのではないのでしょうか?ブログ主も今回の記事を記述しても当時の沖縄社会における勢力争いが理解できません。(続く)


【関連項目】

公同会関連資料(資料を追加しました) http://www.ayirom-uji-2016.com/related-documents-of-koudoukai

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