琉球・沖縄の歴史の概要その9

1849年(嘉永2)に尚泰くん*が新しいPCユーザーになりますが、すでにPCはポンコツ1歩手前の状態でした。こんなときに登場したのがアメリカ合衆国のペリィのおっさん一味*です。尚泰くんに大して「新たに合衆国とのネットワークを敷設しろ」と無理難題を吹っかけます。

*尚泰(しょう・たい:1843~1902):尚円王統最後の琉球王。即位は1849年(嘉永2)で冊封は1866年(慶応元)。1872年(明治5)に明治天皇より琉球藩主に封じられます。

*マシュー・ペリー(1794~1858):アメリカ海軍の軍人。旗艦サスケハナ号など数隻の軍艦を率いて1853年(嘉永5)3月に琉球王国に来航。首里城訪問を果たします。

ペリィのおっさんとその一味は日本に対しても同様の要求を行い、その結果日米和親条約という形でネットワークを敷設することに成功します。薩摩おいどんも尚泰くんも時代の流れには逆らうことができず、1854年7月(嘉永6)に琉米修好条約を締結します。この時琉球・沖縄の歴史上初めてアメリカとの正式なネットワークが敷設されます

そうなると、フランスやオランダなども「俺たちともネットワークを敷設しよう」と要求します。そしてアメリカとの先例に倣って修好条約という形でネットワークを形成します。このときに薩摩おいどんの斉彬くん*余計なことを画策してしまったため*、その後尚泰くんをはじめ配下のスタッフに対して迷惑極まりない事態*を引き起こします(続く)。

*島津斉彬(1809~1858):薩摩藩第11代当主。日本史においては名君扱いも、琉球・沖縄の歴史から見ると最悪クラスの人物で間違いなしです。

*1857年(安政3)に市木四郎を派遣して琉球側に対して①フランスやオランダとの貿易②フランスとの軍艦購入の交渉など斉彬の意向を伝えます。斉彬はこれまでの薩琉関係の慣例を無視した政策を画策し、三司官の人事にまで露骨に介入しますが、1858年の急死でこれらの政策は頓挫します。

*翌1859年(安政4)に琉球王府内で突如斉彬の政策に関与した人物が投獄される事件が発生します。これが牧志・恩河事件です(事件の顛末があまりにも陰湿すぎるためここでは説明を省きます)。

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