ここまでは調子に乗って1260年(正元2)から1872年(明治4)までの歴史を記載しました。1872年(明治5)以降の通史は後日記載するとして、ざっと目を通したところ過去の成功体験が結果として琉球の社会全体を疲弊の極に追いこんでしまった印象があります。
成功体験とは
・1372年(謙徳3/応安5)に察度が冊封を受けることで朝貢貿易の利を最大限に享受できたこと。
・尚円王統3代目の国王尚真の時代に行った政治改革が大成功を収めたこと。
になります。特に尚真王の時代に完成した政治・社会制度に固執してしまったことが致命的になったのです。確かに1609年(慶長14)の薩摩入りによって琉球国は苦境に陥ります。ただしこの時代は甘藷の普及や木綿織りや陶業の発展など新産業も勃興して、かつ開墾事業も盛んに行われた結果18世紀に入ると耕地面積と人口が2倍に増えているのです。17世紀中盤から後半にかけて首里や那覇で大々的に道路橋梁の整備が行われたことからも人や物資の往来が盛んになった*ことが分かります。
*この時代に従来民間で流通していた鉄銭(鳩目銭)が不足してきたため、薩摩藩で死蔵していた偽の銅銭(洪武通宝)を鋳造しなおして、琉球国で鳩目銭として流通させます。交換比率は一文銭(寛永通宝あるいは洪武通宝)=鳩目銭50枚です。経済の潤滑油である通貨が大量に供給されるようになったため、物資の流通量も増えて琉球国全体としてみると経済は活性化します。この点は産業経済上重要なことですが、なぜか従来の琉球・沖縄の歴史では重要視されません。
人や物資の往来が盛んになると新しい階級が勃興して社会全体に活力を与えてもおかしくないのですが、18世紀の王府の政策は新階級の勃興を許さず従来の身分制度を墨守します。当事の考え方からすれば極めて全うな政策ですが、社会の変化を許容しない姿勢が結果として琉球国の衰退を決定付けたのは間違いありません。
成功体験は極めて重要ですが固執すると身を滅ぼす典型的な例と断言できます。この後琉球・沖縄の社会が疲弊の極からどのようにして蘇るのでしょうか、その前に1260年から1872年間における琉球・沖縄の歴史の個人的な謎について記載します。
サットが具体的にどれくらいの「朝貢貿易の利」を享受していたのか
史料的根拠を明示して説明してくれますか?
私は正史も歴代宝案も読みましたが、
サットが朝貢貿易で利益を得たと書いてある史料は見たことがありません。
ちなみに、朝貢していた中山は、朝貢していない尚ハシに無抵抗で土下座しています。
尚ハシが支配していた知念半島は、乾いた赤土だらけの沖縄県で、
例外的に肥沃な土地柄です。
この点は、当時の沖縄における冨の源泉が何だったか、を示唆していると思います。
そもそも沖縄は貧しい土地柄で、碌な産物はなく
輸入品を朝貢しているわけです。
貢物を調達するだけで大金がかかるのに、
どうやって利益が出るんでしょうか。
ちなみに16世紀に冊封使として来島した夏子陽は
上記の構図を指摘して、朝貢が王府に負担を強いていること
自国の産物だけを要求するべきで
沖縄は貧しい土地柄なのだから贈り物が貧相でも咎めるべきではない
と明言しています。
>人や物資の往来が盛んになると新しい階級が勃興して社会全体に活力を与えてもおかしくないのですが、18世紀の王府の政策は新階級の勃興を許さず従来の身分制度を墨守します。
あなたは仕明持を知らないのですね。下記で触れたので御参照ください。
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/9431512.html
仕明持はウェーキとも呼ばれ、百姓身分ながらウェーキとなったものもおります。
地元役所の管理職には、確かに士族しかなれませんが、
中間~下級官吏なら百姓でもなれたのをご存知ですか?
官職を得るには莫大な付け届けが必要なので、
ウェーキと呼ばれる豪農層は
ヒラの士族よりむしろ猟官運動で有利なのです。
仕明持はこうして地方行政にも食い込み、
自分たちの既得権を固めていったのです。
対照的に、徐々に没落が進んだのが首里士族の下っ端です。
官職も得られず食っていけないので
サイオンあたりから、嫌々ながら内職などを認めるようになっていったのは
あなたもどこかで指摘いましたね。
ただし内地との決定的な違いは、
戦国時代を経た日本の士族階級は、
プロ倫的な利潤の追求、勤労の美徳を発達させており
むしろ武士の内職を推奨する風潮すらありましが
(東郷重位が家業で金細工をしていた事などは有名ですね)
琉球の士族階級は基本的に内職の類は
下層民の仕事として軽蔑していた事です。