
ここ数日ブログ主は、忙しい中時間をつくってアメリカ世時代の史料をチェックしていますが、その中に興味深いコラムを見つけましたので全文を紹介します。50年前のコラムなので若干読みづらいところはありますが、当時の新聞記者たちの “矜持” が伺える貴重な内容になっています。
それを踏まえて、ブログ主は「どうしていまの新聞記者たちは堕落しちゃったのだろうか」と思わざるをえませんが、とりあえずまずはコラムをご参照ください。ただし原文史料の一部文字潰れがありましたので、その個所は〔〕で補っています。
話の卵
「新聞が育てる未来の人と国」標語を掲げて第20回新聞週間がきょうから幕あけされた。新聞週間は「新聞」にたいする社会の認識を深めるとともに、新聞を作る立ち場にある者が新聞の理想に近づくための反省の機会を得よう – というねらいで昭和23年に設定された。
「自由にして責任ある新聞」の理想のもとに新聞と読者との強い結びつきをめざした「新聞」についての啓発と宣伝の期間である。戦後米占領軍の〔GHQ〕新聞課の示唆でアメリカの新聞週間に呼応、日本新聞協会加盟150余社が参加して、その機能をフルに活用、全国的な規模で展開されている。
公共の利益を害するか、または法律によって禁ぜられている場合を除き、新聞は報道、評論の完全な自由を有する。禁止令そのものを批判する自由も、その中に含まれる。この自由は実に人類の基本的権利としてあくまでも〔擁護〕されなければならない。 – こうした「新聞の自由」=新聞倫理綱領による=を守るために新聞人はどのような手段をとっているのだろうか。
日本の新聞は官僚統制のにがしがしい体験がある。かりに新聞が自由を伴う責任なるものをじゅうぶんに果たさないならば読者の不信を買い、官僚統制を招きかねないであろう。こうした点から「報道と評論の責任を良心的に果たし、読者の支持を得ていることが必要だ」といえる。
たとえば
①公正な報道
②人についての批評は、その人の面前で話し得る限度にとどめる – など、結局は記者の訓練が決定的な対策になろう。正義感、闘志、問題意識を持つためには記者同士がみがきあうことも必要だが、編集だけでなく業務、印刷をはじめ会社が一体となって自由に議論しあう気風が要求される。
ジャーナリズムの仕事は医師、法律家、教授と同じくプロフェッションに準ずるものと認められるようになってきた。そのために設けられた新聞協会の倫理綱領を根拠に報道の水準と社会的評価を高めることが一つの要件となっている。そこで倫理綱領を厳に守らない限り、プロフェッションとしての社会的信頼は保てない。また新聞の社会的責任の追及が強い昨今、新聞の存立そのものの維持もあやぶまれている。新聞週間を迎え読者とともに自覚を新たにしたい。(汐)
引用:昭和42年10月20日付琉球新報夕刊1面
なお、文中にある「倫理綱要」とは一般社団法人日本新聞協会が定めた「新聞倫理綱要」(平成12年6月21日)のことであり、前文は省きますが、極めて興味深い内容となっています。
責任と自由
表現の自由は人間の基本的権利であり、新聞は報道・評論の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない。
正確と公正
新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追及である。報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。評論は世におもねらず、所信を貫くべきである。
独立と寛容
新聞は公正な言論のために独立を確保する。あらゆる勢力からの干渉を排するとともに、利用されないよう自戒しなければならない。他方、新聞は、自らと異なる意見であっても、正確・公正で責任ある言論には、すすんで紙面を提供する。
人権の尊重
新聞は人間の尊厳に最高の敬意を払い、個人の名誉を重んじプライバシーに配慮する。報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。
品格と節度
公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。また、販売にあたっては節度と良識をもって人びとに接すべきである。
ちなみにアメリカ世時代も現代の新聞記者も新聞倫理綱要は「正しい」と確信しており、そしてその主旨に沿って記者の使命を全うすべく日々の業務に励んでいるのも疑いの余地ありませんが、ではなぜ現代の記者は “堕落” してしまったのでしょうか。次回はブログ主なりにその点について言及します。