閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その7

我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか?の連載が意外に長引いています。本来ならその5ぐらいで終わらすつもりでしたが、琉球藩時代の当局の対日外交が余りにも稚拙なため、予定を変更して(当時の対日交渉の)失敗の本質の考察を詳細な限り行います。

前回の記事で、明治8年の5月29日の明治政府の御達書に対する琉球藩当局の対応について、

・明治政府の全権委任で来琉した松田道之のメンツを潰していること。

・二枚舌を使ったこと

の2点を厳しく批判しました。実は琉球藩当局が明治政府から委任された松田を頭ごなしにして、直に政府に嘆願しようとしたのは訳があります。ブログ主は、「琉球見聞録」に記載された松田と三司官との間の論戦において、何となくではありますがその理由を垣間見ましたので紹介します。(旧漢字はブログ主で訂正すみ)

明治8年(1875)8月20日 松田と三司官との弁論(松田滞在の旅館にて)

松田 当藩の儀往古より支那の恩義軽からず、支那を相離るれば信義不相立との儀一応理あるが如くなれども、当藩に於ては之を条理と思へるや?

三司官 然り。他に此上の条理なしと思ふ。

*条理は大雑把に「道理」の意味で捉えて構いません。琉球藩においては支那(清国)との関係こそが最上の道理と断言しています。

松田 此儀は独り当藩に限らず、支那は諸国より先きに開けたれば日本も孔孟の道を学び、其文字を用ふ。其恩義少なからず。而して当今日本は万事万物欧米各国の美を学び、以て開明進歩に赴けり。其恩義亦支那に異ならず。今琉球従前の通り両属の儘(まま)に任置かば、政府の缺典(欠点)に属するのみならず、他に放置すべからざるの理由あり。誠に其一二を言はん。若し英国支那と兵馬を交へ、支那大地を占領せば、随って当藩も其掌中に属せん。然るときは、日本は英国と談判を開くに至らん故に、此際支那との関係を絶ち置かざれば之が弁解の辞なく、当藩も迷惑に及ぶべし。又日本支那と戦端を開かば当藩は何れへも附きがたく、実に致し方なき場合に立至るべし(中略)。

*松田は琉球藩の言い分にも一定の理解を示すも、今後は国際情勢が両属体制を許さないことを説明しています。

三司官 皇国の各国に対せらるるは隣国交際の道なり。当藩の支那に於けるは父子の道、君臣の儀、其情義の係る所至大重此上なき条理なり。隣国交際の情義とは同日の論にあらず、信義を守るのは万国の同く好む所、信義を失うは万国の共に悪む所、万国好む所の信義を全うせしむるは政府の盛典(長所)にあらざらん乎。且各国の交際も信義を以て御処置あらせらるべし。当藩も堅く信義を守るを以て保国の要具となす。尤も英支戦争の事は未来の変故必ずべからず。当藩に於ては信義さへ失はざれば、前途憂慮を煩はす所なかるべしと信ず。

*三司官は日本と支那(清国)との関係は「父子の道、君臣の儀」であって、尤も大切な道理であり、信義を守ることが国を保つことであると主張しています。

琉球藩が主張する「父子の道、君臣の儀」の道理は、漢学で敎育を受けた当時の日本人にはグッと来ます。なぜなら儒教に於いて最も優先すべき倫理は①父子の道②君臣の儀だからです。これらの信義を破ることは相当の心理的抵抗がありますので、本来であれば琉球藩の当局が考えうる限り最上の反論になるはずですが、松田をはじめ来琉した明治政府の高官たちにはその論理が通用しません。そうなると琉球藩の首脳たちが「明治政府が派遣した人たちは人倫の道が分からないのか?こんな愚かな人とは話がつうじない」と思ってしまうのも止むを得ないかもしれません。(現代の沖縄通史でこの点の指摘がないことが残念です。)

だからといって明治政府から正式に委任された交渉相手のメンツを潰すようなことはしてはいけません。この後の三司官は、松田が琉球藩の主張を受け入れないと分かるや、返答の引き伸ばしを行い、遂には直接政府への談判を提案するようになります。この方法はハッキリいって最低の交渉の方法です。つまり。

「お前では話が通じないから、上の者を出せ!」

と松田に対して主張しているのと同様で、まさにクレーマーの論理そのものです。その結果琉球藩は怒らせてはいけない人を無駄に怒らせてしまい、最後通牒を突きつけられて窮地に陥ってしまったのです。

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