閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その2

ここ数日、我がご先祖さまは本当に「賢く外交、友好で国を栄えさせる道を選んだ」のか、その長所と短所をあれこれ考えて見ました。ブログ主が考えうるに、長所はおそらく「武力を用いることに比べるとあまり費用がかからない」ことでしょうか。ご先祖さまにコストパフォーマンスの概念があったかは不明ですが、ハリネズミのように武装して外敵の侵入に備えるのに掛かる経費に比べると安上がりなこと間違いないでしょう。

短所は2つあります。それは

1.琉球側の外交を司る人(あるいは部署)が本当は賢くなかったとき。

2.これまでの「賢い外交や友好」の手段が通用しなくなったとき。

になります。特に2番の事項が重要です。先の投稿者は外交の最終手段としての「武力行使」を想定しないように見受けられますが、これまでの外交手段が通用しなくなった時に当事者と相手国の力関係が激変した事例があるので紹介します。

琉球と日本との外交は大雑把にいって15世紀から始まります。琉球側は時の権力者である京都の足利氏に対して入貢することで交易の安全の確保を試みます。応仁の乱(1467~1477)の後は、足利家に対し距離を置いて、今度は薩摩の島津家との関係強化を図ります。そして文明13年(1481)に琉球の官船が始めて薩摩に派遣されます。このとき派遣された官船のことを「紋船(あやふね)」と呼びます。(あるいは綾船とも書きます)。

紋船派遣は確認できるだけで計13回、主な役割は島津家の代替わりの際の慶賀使の派遣になります。琉球側としては航海の安全を確保するために、日本の権力者との外交関係を円滑にする必要があり、事実1410~1460年の間は京都の足利家と良好な関係を築いていました。薩摩の島津家との外交関係が必要になった理由は、

1.琉球→堺の交易ルートにおいて、当時は必ず薩摩領内の坊津を経由しなければならなかったこと。

2.1471年に京都の足利家から島津家に対して、琉球渡航の船舶に対しては「規定の印判」なきものは薩摩領海で追い戻して、その積載荷物は没収して京都へ送り届けるよう命令があり、島津家は琉球貿易に対する強大な統制権を得ることになった。

ことが関係していると思われます。特に「規定の印判なし渡琉球船」の問題は琉球側には死活の問題で、そのために薩摩の島津家に対してご機嫌取りをする必要があったのです。以下の流れを振り返ると当時の琉球の対日外交は合理的で、たしかに「賢い外交、友好で国を栄えさせる道を選んだ」ように見受けられます。ただし時の流れと共に、その賢いやり方がだんだん通用しなくなったのも又事実で、この後紹介する外交事件(紋船一件)が薩摩と琉球の間の力関係を激変させてしまうのです。(続く)

にほんブログ村 歴史ブログ 琉球・沖縄史へ
にほんブログ村

SNSでもご購読できます。