閑話 我々のご先祖は賢い外交をしてきたのか その4

前回までの記事において、15~16世紀における琉球の対日外交を検証して、Facebook 上の投稿にあるように「賢く外交、友好で国を栄えさせる道」を実行したかをチェックしました。結論は「軍事力の裏づけのない外交には限界がある」ことになりますが、では今度は舞台を19世紀に変えて、当時の琉球王府の当局者が幕末の動乱期にどのような外交を展開したかを考察します。

ちなみに19世紀当時の外交相手は、アメリカ、フランス、そして明治政府になります。このメンツから賢い外交、友好の手段が通じる相手ではないことが分かります。特に列強(アメリカ、フランス)は砲艦外交の本家本元で、強大な軍事力を背景に己の意向を貫く気満々の相手です。ハッキリ言えばそんな物騒な相手に琉球王府の当局は無力そのものでした。

当時の王府の外交が列強に対して無力だったのは理由があります。軍事力の裏づけがないのは勿論、慶長の役(1609)以降の国事の重要案件は原則として「御国許(薩摩藩のこと)へお伺い」をして処理を行っていたからです。琉球在住の薩摩のお役人も列強に対しては無力そのものでしたので、結果的には琉球はアメリカやフランスと修好条約を締結します。ちなみにフランスとの条約締結ストーリーは下記参照ください。

佛国船の渡来に就き、毛姓家譜は記して云ふ。毛有增(垣花親方)は咸豊三年(嘉永五年)癸丑六月十四日に異国事務を弁理する為めに命を奉じて那覇地方官と為り、異国船の来航毎に、或は其船に到り、或は那覇公館に於て異国人を礼待せり。

咸豊五年(安政二年)正月、仏蘭西国亦「熱辣」「默路默」等二名、通事支那人葉桂郎を遣はし居住せしむ。尋いて同年九月廿□日、同国欽差全権大臣水師提督「干爾杏」兵船に坐駕して属船二隻を卒領し共に那覇港に来たれり。琉球当局官吏との協商を要求せしを以て、有增は王命を奉じて総理大臣向景保(元部按司)府政大夫向如山(棚原親方)向徳裕(野村親方)等に随ひ、那覇公館に於て会合せり。

是日提督は兵員数百名を卒領し各武器を帯び鼓騒して来たれり。先ず兵員をして公館を包囲せしめ席に入り来たりて、文書一通(漢文)を交付せり。有增等展読の後、提督に向かって言ふ、「文中にある薪水の供給、水先案内(撥舟引導)救難抷溺、卜地葬死、石炭貯蔵所(蔵煤炭)及び船舶の借入等は允許すべしと雖も、借地、借家は逗留月日の長短を論ぜず国禁に係るを以て允許し難し。宜しく諒察を請ふ」と弁明せしに、提督憮然として色を為して言ふ、「展読の文書は国主の命に出づるものにて一事たりといえども増減すべからず。必ず領諾を要すべし」と。有增等婉言を以て「琉球国は支那の藩屏に列し世々王爵を受け代々貢職を勤め凡そ国家に大事あれば自ら専断すること能はず、命を支那政府に謂へり。仍つて姑らく寛宥を乞ふ」といひしに提督大喝一声、左右の兵員剣を抜きて進入し琉球談判委員を捕へて戸外に拉し去らんとす。時に摂政三司官等報を聞きて大に驚き、事の急なるを看取して其請を容れしめ遂に条約を締結せりと云ふ。

斯くて提督等は欣然兵を領して帰艦し十月十九日艦隊を率いて出航せり。而して残留の仏人熱辣等は唐栄の後松林中に選定し家屋を建てて永住の●と為せり。(中略)当時の琉球側の外交振は実際の当局者なりし摂政三司官等は後方に隠匿して之を操縦し臨時に当該官吏を仮に設定し以て折衝に当らしめたるが如し。

このエピソードは真境名安興著『沖縄一千年史』からの抜粋です(一部旧漢字は訂正)。文語なので読みにくいのですが、大意は以下の通りです。

・安政2年(1855)にフランス艦隊の提督と琉球王府の当局者が会合。

・その際フランス側は兵隊を率いて外交交渉に指定された那覇の公館を包囲する。

・そして交渉スタート、琉球側が一部条件に難色をしめすと、フランス提督はお怒り。

・琉球の当局者が「琉球は支那の(清国)の藩屏にして、清国政府との協議の末云々…」と提案すると、フランス提督ガチ切れ。

・そして公館を包囲していたフランス兵が乱入して、琉球の交渉人を拉致する構えを見せる。

・三司官がその報を聞いてびびって、フランスの言い分をすべて飲むことで決着。

上記エピソードは、19世紀の砲艦外交の本質をよく表しているため、ブログ主はよく引用するのですが、現在の歴史教科書でこの話を教えないのは正直理解できません。むしろ琉球藩設置→廃藩置県に至るまでの明治政府の二枚舌交渉を非難する論調が目立ちます。ハッキリいってフランスの方が無茶苦茶ですが、それでは明治における日本政府と琉球藩の当局者はどのような交渉をおこなってきたかを次回考察します。(続く)

【追記】上記のエピソードからも察するに、当時の列強が琉球を独立国と看做して修好条約を締結した理由はただ一つ「あわよくば占領して自国の勢力圏内にする」ためです。ペリー提督なんてベッテルハイムから当時の琉球の実情を聞きだして日本と清国との両属であることを把握していました。そんな現実を無視して独立国として扱ったのですから、その意図は明確です。

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