閑話 訴え続ければ何時かは願いが叶うなり その2

アメリカ軍の占領行政を経験した世代のことをブログ主は戦後世代と呼びます。翁長雄志知事はまさにその世代で60~70代の世代が該当します。この時代の特徴の一つは住民運動が激しかったことです。きっかけはアメリカ軍による強制的な土地接収に対する反対運動ですが、やがて祖国復帰の運動に発展して1972年(昭和47)に日本国への復帰を勝ち取ります。

終戦直後のアメリカ兵たちが如何に横暴だったか、5月31日の沖縄タイムスにこのような記事が掲載されていましたので参考にしてください。

戦後間もないこと。住んでいた中城の集落では、夜になると、しばしば黒人兵が集落の女を漁りにきた。見つけた人が「クロンボーどぉい~(黒人兵だそ~)」と叫んで、ガジュマルの木につるした酸素ボンベを乱打した。集落の人たちが聞いて集まり、侵入者を追い払った。(文学者が見る元米兵の遺体遺棄事件 大城立裕)

この話は誇張でも嘘偽りでもなく、当時のアメリカ兵たちは占領軍意識丸出しで行動してしまうため当時の住民たちを怖がらせてしまいます。このような事例が多発するため「婦女子から不安を守るためには外人相手の歓楽街を作らなければならない」ということで現在の沖縄市八重島に初めてアメリカ人専用のバー街が誕生します。

そんな物騒な終戦直後に、さらに当時の住民を怒らせたのが軍用地の接収問題です。サンフランシスコ講和条約が発効後に沖縄は「戦時」から「平時」に以降したため、これまで強制的に接収した軍用地を所有あるいは賃貸契約に切り替える必要があります。ただしその時のアメリカのやり口がまさに占領意識丸出しだったのが拙かったのです。

新しく軍用地を接収するやり方も無茶苦茶で、これだけでもむかつく上に接収した軍用地の地代を「廉価で一括払い」すると提案したことで住民の怒りが爆発します。官民挙げての反対運動が展開されて、遂にはアメリカ側が大幅譲歩する形で決着します。その時の住民運動のことを島ぐるみ闘争*と呼びますが、ウィキペディアのまとめ記事が簡潔で分かり易いので参考にされることをお勧めします。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%BF%E9%97%98%E4%BA%89

*2014年の沖縄知事選および衆議院選挙において革新勢力は「オールおきなわ」を掲げて選挙運動を展開します。オールおきなわのネーミングは「島ぐるみ」を現代風に言い換えただけですが、この戦略が大当たりで革新勢力は選挙戦で大勝利します。1950年代の住民運動の発想が現代にも引継ぎされている例と言えます。

島ぐるみ闘争でアメリカから大幅な譲歩を引き出したことは当時の沖縄の人たちに大きな自信を与えます。敗者の悲哀を嘗め尽くした人たちが戦勝国であるアメリカに一矢報いた形です。そのときに芽生えた自信が、祖国復帰運動に大きな影響を与えます。

1972年5月5日の沖縄の日本国復帰は歴史の奇跡そのものです。理由は戦争で奪われた土地を交渉で取り戻すことができたからです。北方領土を見ればお分かりの通り戦争で失った土地は交渉では返還されません。沖縄の返還された理由は国際情勢の変化と日本国の経済発展などの要因が挙げられますが、沖縄に住む住民たちの激烈な祖国復帰運動も大きな要因です。戦後世代は当時の住民運動の熱気を経験していますが、その時の成功体験が後の沖縄県民の行動様式に大きな影響を与えることになったのです(続く)。

 

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