琉球藩の時代 その3

~旧慣温存について~

琉球・沖縄の歴史において1879年(明治12)の廃藩置県後の旧慣温存政策は何かと批判的に記述される傾向があります。では「当時の旧慣とは何ぞや?」と問われて即答できる人はあまり多くはいないでしょう。現代の歴史教科書に詳しく記載していないのが原因ですが、ここでは当時の代表的な旧慣について説明します。

旧慣温存とは琉球王府の時代に施行された政策、具体的には土地制度や税制などを指しますが具体的な例を4つほどあげます。

1.甘蔗敷地の制限(作付制限):琉球王府の時代に甘蔗(サトウキビ)の作付地域が厳しく制限されていたことは実は余りの知られていません。サトウキビを生産しすぎると琉球国内における米や麦の生産に影響がでることと、黒糖生産に大量の薪水が必要なため水資源や森林資源を保護するために作付を厳しく制限していたのです。

当時は極めて正しい政策ですが、廃藩置県後の1888年(明治21)に明治政府は作付制限を解除します。この施策により黒糖は貢租の対象から商品へと変わります。その後黒糖生産は順調に増加して沖縄県の経済を支える主力商品になります。

2.土地制度(地割):琉球王府の時代の土地制度は農民に土地の所有を許さずに、農地は村で管理して百姓に分配していました。ただし分配した土地は一定期間を過ぎるといったん取り上げて別の土地を割振りしていました。これが地割の制度で1609年(慶長14)の薩摩入り後からしばらくして農村で採用されるようになります。

地割の運用は農村の急速な共同体化を促します。そのため琉球王府側も一度は廃止を検討したのですが、農村側の反対もあって結局実現することはありませんでした。地割の廃止は農村共同体の崩壊につながり、その結果貢租の徴収に悪影響がでてしまうので王府側も強権を以て地割の廃止を行うことはありませんでした。

廃藩置県後もこの土地制度はしばらく続きました。理由は上記にあるとおり地割の廃止は農村共同体の崩壊を意味するため明治政府側も慎重にならざるを得なかったのです。それと地割の運用は各間切に任されていたため、その運用ルールが複雑多岐で琉球国内の統一ルールありませんでした。そのためどこから手を付けていいか分からなかったのです。

土地制度の改革は1899年から1903年の4年間に行われました。このときに沖縄の歴史で初めて土地の所有が法的に認められます。産業経済的に見ると画期的なルール変更ですが、現代の沖縄の歴史の歴史書に於いてはその意義が十分に説明されているとは思えません。この点に関しては極めて残念なことですが、後日改めて記述する予定です(続く)。

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