マスコミの堕落

前回の記事において、昭和42年の記事や新聞倫理綱要を引用しましたが、新聞記者は国民の知る権利を全うすべく、高い倫理意識をもって業務に励まなければならない職種であることがわかります。そしてその “使命感” こそが他の職種との違いともいえますが、興味深いのは使命感だけでは新聞記者はやっていけない側面があるという事実です。

それはつまり、どんなにいい記事を書いても国民が読んでくれないと意味がないからです。昨今のしんぶん赤旗が好例ですが、報道機関も営利企業である以上、記事が売れないとすごく困ります。それゆえに新聞記者たちは、いかに購読者(あるいは視聴者)受けするかを念頭に記事を書かないといけない状況下にあります。

その結果、マスコミ業界では「いい記事だから売れる」のではなく「読者受けする(イコール売れる)からいい記事」のセンスで業務する記者たちが出世していくのです。つまり、新聞記者たちは “使命感” と “営利目的” の「二つの心」を持たざるをえない宿命にあります。

もちろん他業種も社会貢献を掲げて企業活動を行っていますが、それはあくまでも「営利の範囲内」であり、彼らと違いマスコミ業界は「使命感」と「営利」を両立させないといけない厳しい環境にあるのです。それゆえにマスコミは現代社会における “特別な存在” と言えますが、ではなぜ彼らが堕落してしまうのでしょうか。

それは単純な話、購読者受けを狙って権力の監視を行う記者たちの言動を制御できないからです。

大雑把に説明すると、国民の知る権利を妨げているものは何か?それは政治権力や大企業などの「力の強いもの」であり、彼らが「隠しているもの」を暴き広く大衆にアピールするのがジャーナリズムの神髄であるとの「正義感」と、購読者受けする記事を書き続けることで会社の営業利益に貢献する「正義感」、いわゆる2つの正義感が合体すると、権力の監視を行う、それ自体が目的の記事を書き続けることによって営利を確保する循環にはまってしまい、そこから抜け出すことが極めて困難になるからです。

わかりやすく言えば、沖縄二紙における

南城市長に対する記事

が好例です。しかも肝心の記事が、購読者に受けているか確信が持てない場合、「力強きもの」に対する風当たりが厳しくなるから質が悪いのです。実際に南城市長案件の記事をチェックしていると、(新聞倫理綱要にある)自由と責任、正確と公正、独立と寛容、人権の尊重、品格と節度を守っているとは思えません。ただし肝心の新聞記者たちは、新聞倫理綱要にある項目は正しいと確信の上、南城市長を厳しく “追及” しているのです※。

※これこそが二つの心をもつ恐ろしさです。

ここまでなら、またマシかもしれませんが、権力者たちにとっての不都合な事実が「購読者受けしない」と判断された場合、マスコミはその事実を報じるのをためらう傾向が極めて強いのです。一番いい例が令和4年(2022)10月23日投開票の那覇市長選挙における翁長雄治候補のセクハラ疑惑を積極的に報じなかった件です。沖縄マスコミが行使した「報道しない自由」の典型例と言っていいかもしれません。

※ブログ主が確認したかぎり、紙媒体では沖縄タイムスのこの一件だけで、琉球新報は取り上げていません。南城市長のセクハラ案件記事との扱いのあまりの違いにご注目ください(令和04年10月13日付沖縄タイムス2面)

いかがでしょうか。使命感と営利目的の両立が結果的に新聞記者たちを堕落に導いてしまったことがお分かりかと思われますが、プラス「士気の低下」も加わって、現代の新聞記者たちは極めて厳しい状態に追い込まれているようにも思われます。次回はこの点について言及します。