公同会運動の顛末 琉球新報社が果たした役割 その2

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前回の記事では、1893年(明治26)に誕生した琉球新報について説明しました。今回は1951年(昭和26)9月に「うるま新報」から「琉球新報」に改題した現代の琉球新報社について記述します。

実は現代の琉球新報社は、大日本帝国の琉球新報社の伝統を完全に引き継いでいません。理由は

1.戦後の琉球新報の前身は米軍政府機関紙として、アメリカが設立に尽力した「ウルマ新報」であること。

2.ウルマ新報を立ち上げるに際して、アメリカはかつての琉球新報社を始め、沖縄のジャーナリストを採用せず、素人を採用して運営したこと。

3.その後民間会社に移行して、1951年(昭和26)9月10日に、琉球新報に改題したこと。ただしその改題も当初は違う名前をつける予定であったこと。 (琉球日報の名称を予定していた)

になります。つまり、米軍の機関紙からスタートするさいに、アメリカ軍政府側が沖縄新報(1941年に設立した、3社合同の新聞社)に奉職した記者たちを「戦争協力者」としてウルマ新報から排除したため、戦前の社風や伝統がいったん断たれた形になってしまったのです。

では何故に米軍機関紙からスタートしたウルマ新報が琉球新報に改名したか、それは当時の沖縄民政府副知事だった又吉康和(またよし・こうわ)氏の意向と言われています。彼は1915年(大正4)に琉球新報に入社して、太田朝敷氏の薫陶を受けた沖縄のジャーナリストで、同社の主筆、社長も務めた履歴からわかるように、戦前の琉球新報社の伝統を受け継ぐ人材です。

又吉氏は1952年(昭和27)4月に琉球新報社の社長に就任し、その再建に尽力しますが、惜しいことに1953年(昭和28)9月に急逝します。彼の死が戦前の琉球新報の歴史や伝統を後世に伝えることができなかった最大の理由で、その結果新報社は、1948年(昭和23)に誕生した沖縄タイムスの後塵を拝することになってしまったのです。(続く)


【関連項目】

琉球新報ほか沖縄のマスコミ関連の資料 http://www.ayirom-uji-2016.com/ryukyu-shimpo-and-other-materials-related-to-mass-media-in-okinawa

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