公同会運動の顛末 琉球新報社が果たした役割 その5

ootatyoufu

前回までに沖縄タイムス社に対するブログ主の仮説を掲載しました。今回からは本題である琉球新報社が沖縄社会に対して果たした役割について述べます。

琉球新報社は前述の通り、1893年(明治26)に奈良原知事の提案と尚家がスポンサーになって設立されました。その経緯ゆえに機関紙的な性質が極めて強い新聞社だったのですが、日清戦争(1894~1895)の結果、新報社は社風の変質を余儀なくされます。

琉球新報の社員たちは会社創立直後に凄まじい恐怖を体験しています。それは日清戦争の開始が原因で、もしも清国が勝利した場合は、自分たちが拘束される、あるいは殺されるというプレッシャーに悩まされながら業務する羽目になったのです。そのときの状況を沖縄県政五十年より抜粋します。

戦況稍酣ならんとする頃、誰いふとなく支那の南洋艦隊が襲撃するとの噂が流布したので、口では強いことばかりいつてゐても、懸廰の役人を始め、諸學校、寄留商人團、及び開化黨の面々は極度の恐怖に襲われ、家族を普天間邊に避難させたものもあった。殊に紙ハブたの製造者たる吾々同人は、何といっても懀惡の的となってゐるので、若し黄い軍艦が襲来した時には、眞先に首が飛ぶのは吾々に極つてゐるから、この風説の爲め内々非常の脅威を感じたのである。

なぜこのような恐怖を感じるようになったかと言えば、沖縄に始めて電信設備が敷かれたのが1896年(明治29)鹿児島―沖縄間で、それまでは汽船による情報入手だったからです。幸いにも日清戦争は日本の勝利に終わり、琉球新報社の社員は生命の恐怖に晒される心配がなくなりますが、その原体験が琉球新報、および社員たちに大きな影響を与えます。それは

「自分たちは選ばれた存在で将来の沖縄社会をリードしている立場である。」

という自覚を否応なく彼らの脳内に植えつけることになったのです。このエリート意識こそが戦前の琉球新報の伝統で、それを体現したのが太田朝敷氏(1865~1938)です。そして彼の尽力があってこそ、新報社は単なる尚家や沖縄県庁の御用新聞に留まらず、一般紙として沖縄県人に認知されることとなったのです。(続く)


【関連項目】

琉球新報ほか沖縄のマスコミ関連の資料 http://www.ayirom-uji-2016.com/ryukyu-shimpo-and-other-materials-related-to-mass-media-in-okinawa

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