琉球・沖縄における国防意識の変遷

Chobyo_Yara

先日、昭和52年(1977)朝日新聞社刊行 『屋良朝苗回顧録』を読んでいるうちに、面白い一節がありしたのでこの場を借りて紹介します。全文を掲載しますのでご参照ください。

「安保」・「基地」 反対を貫く

あるとき、私はアンガー高等弁務官に呼ばれ、私の主張に関して二つのことを聞かれた。一つは「基地反対」が理解できないということであり、もう一つは、「安保反対」とはどういう意味かということだった。

実は、私たちの統一綱領では初め、「基地撤去」「安保廃棄」となっていた。これらは基本的な理念ではあるけれども、あまり現実から遊離すると、相手につけ入れられるおそれがあるため、私の注文で 「反対」にとどめてもらった。

私は高等弁務官の質問に、あらまし次のように答えた。

沖縄は戦前、日本軍の拠点であったために未曾有の大戦に巻きこまれ、多数の人が犠牲になった。この経験から、私たちは、いかなる軍事基地を置くことも了解しない。

実際、沖縄の米軍基地は、朝鮮やベトナムの戦場に直結していた。下手をすると、この基地があるゆえに、沖縄は報復を受けるおそれがある。常識的に考えて、軍事基地があってもよいとは決して言えないはずである。沖縄の人たちが暴力的に基地を破壊した例はないけれども、だからといって基地の存置に賛成しているわけではない。本土でも、たとえば佐賀や熊本に沖縄のような基地があればだれだって反対するだろう。

また安保についても、沖縄の米軍基地が日米安保体制のキーストン(かなめ石)になっている現実がある以上、米軍基地の存在を許している安保に賛成できるものではない。

私は高等弁務官にいった。「私はあなたと安保論争をするつもりはない。ただ沖縄県民の福祉を保障するという私の熾烈な念願を基点として考えるならば、安保と基地には反対せざるを得ない」 と。

こう話すと、アンガー高等弁務官は「そんな考え方もあるな」といって、それ以上なにもいわなかった。(中略)

時代背景を説明すると、昭和43年(1968)の主席選挙における革新統一候補として立候補した屋良朝苗氏の主張の一部に対して、アンガー高等弁務官がその意向を確認した流れなります。当時の革新側は、沖縄の本土返還に関して「即時無条件全面返還」を統一綱領に掲げていて、本土の野党勢力(旧社会党など)と連携していましたから、「安保反対」「基地反対」と唱えるのは至極当然のことでした。

上記の主張は、沖縄の基地に対する旧革新勢力(現在のオールおきなわ)の考え方そのもので、屋良氏の説明が一番分かりやすかったため、この場を借りて掲載しています。今回その理論に対する是非は問いませんが、旧革新勢力が沖縄に設置されている米軍基地を 「国防のため」と看做していなく、「相手を攻撃する」ための存在と定義していることがはっきり分かります。

屋良氏の説明を聞いたアンガー国務長官が 「そんな考え方もあるな」といって、それ以上何も言わなかったのは、おそらく、アメリカ側は米軍基地の設置を 「国防目的(共産主義から沖縄を守るため)」と考えていたからです。正直なところ屋良氏の主張が理解できず、返答につまったのかもしれません。

沖縄に設置された米軍基地に対する旧革新勢力の主張は、実は第二次世界大戦後の日本人の戦争史観の一種であると言っても間違いありません。以前も掲載しましたが、小室直樹著 『ソビエト帝国の最期』 からの日本人の戦争に対する観念を抜粋しますので、ご参照ください。

日本のばあいには、秀吉の朝鮮征伐からはじまって、近代におけるおもな諸戦争、日清、日露の戦役、また北清事変、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、太平洋戦争と、これらはすべて日本の決意によりスタートした戦争だった。しかもまた、太平洋戦争最後の局面のみを例外として、すべて戦争は海外において戦われた。それゆえ、日本人の意識の奥底には、「日本が決意しなければ決して戦争は起きない」 という心的傾向が沈殿した。

つまり、相手側が欲しようと欲しまいと、戦争するかどうかは、すべて日本人の胸先三寸だということである。

この、世界にも珍しい奇妙な心的傾向―「神風史観」から導かれるひとつの糸―が、「戦犯史観」 と結びつくとき、世界中が驚倒する身勝手このうえない戦後日本人の心理 = 「日本人が、戦争などという犯罪的なことを考えてもみないかぎり、戦争なんぞ起こるものではない」 という思考法を生み出すことになる。これぞ日本的史観(歴史の見方)である。

上記の小室博士の主張は、第二次世界大戦後の昭和の日本人の戦争に対する考え方を上手に説明していますが、アメリカ世の時代の沖縄の人たちも同様な考えを持っていたことになります。「基地がある故に攻め込まれる。だから基地反対」の論理は 「自分達が相手に攻め込む意志を表明しなければ、相手から攻め込まれることがない」という考え方の裏返しではありませんか。こんなところまで当時の沖縄の人たちの意識がすっかり日本人化しているのにも驚きを禁じえません。

勿論上記の思想は、当時の沖縄の人たちの総意ではありません。保守派は本土復帰に際して日米安保体制の中で「施政権(司法、立法、行政)を先に返還」と主張していました。この考えかたは在沖米軍基地の存続が前提になっていて、当然ながら当時の革新勢力と対立していました。当時の保守派は在沖米軍基地を「国防のため」と認識していましたが、その考え方は主席選挙時においては少数でした。今回は、ブログ主は我が沖縄の歴史において、「国防意識」がどのように変遷していったかを、調子に乗って考察してみようと思います。(続く)

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【関連】小室直樹博士著 『ソビエト帝国の最期』から、日本人の戦争史観について記述している箇所がありますので、全文抜粋します。ご参考ください。

弱気を挫き強気に媚びる論理 日本人の戦争感は 「神風史観」

ところでさきに、筆者は 「軍隊の行動」 のしかたということに言及した。さらに議論をおし進めて、ソ連軍の行動のしかた、ソ連人の国防意識についてまとめておきたい。

このことに関して、日本とソ連とは、まさに正反対であると思わなければならない。ソ連人もまた、日本人と同じ考え、行動をするのだと思うと、とんでもないまちがいにおちいる。

日本人の戦争感は、戦後四十年になんなんとするいまもって、本質的には、一種の 「神風史観」 である。戦後は、これに「戦犯史観」 が加わったものであるというべきであろう。

しかし、これら二つの考え方は、ソ連には少しも見当たらない。それゆえ、日本人とソ連人とでは、戦争感(戦争の見方)が正反対になるのである。

その原点は、蒙古大帝国との関係にある。二度にわたる蒙古襲来を、わが国のばあいには、神風で撃退して、国も国民も無事であったのにたいし、ロシア(モスコー大公国)のばあいは、支配者は蒙古人に圧殺され、国民は永く異民族の支配に呻吟(うなる)しなければならなかった。

この原点における根本的相違がもつ意味は、かぎりなく大きい。

この相違によって、日本人が一種の念力主義者―「思うことはかなえうることなり」 と意識的あるいは無意識的に信じきってしまうことーになったのにたいし、ロシア人は見るも無残な過剰安全保障主義者になった。そのせいか、その後の歴史も、この基本的人間類型を再生産しつつ進行する。

日本のばあいには、秀吉の朝鮮征伐からはじまって、近代におけるおもな諸戦争、日清、日露の戦役、また北清事変、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、太平洋戦争と、これらはすべて日本の決意によりスタートした戦争だった。しかもまた、太平洋戦争最後の局面のみを例外として、すべて戦争は海外において戦われた。それゆえ、日本人の意識の奥底には、「日本が決意しなければ決して戦争は起きない」 という心的傾向が沈殿した。

つまり、相手側が欲しようと欲しまいと、戦争するかどうかは、すべて日本人の胸先三寸だということである。

この、世界にも珍しい奇妙な心的傾向―「神風史観」 から導かれるひとつの糸―が、「戦犯史観」 と結びつくとき、世界中が驚倒する身勝手このうえない戦後日本人の心理 = 「日本人が、戦争などという犯罪的なことを考えてもみないかぎり、戦争なんぞ起こるものではない」 という思考法を生み出すことになる。これぞ日本的史観(歴史の見方)である。

「神風史観」によれば、日本の敗戦とは、ありうべからざることである。しからば、なぜ、ありうべからざることが起きたのか。ここにどうしても、神義論が必要となってくる。

これをつくりだすための媒体となったのが東京裁判を代表とする軍事裁判である。アメリカの軍事力を背景として強行された一連の軍事裁判によって、日本人はいやおうなしに、「戦犯史観」 を学習することになった。いかにも、「正しき者はかならず勝つ」 という神風史観の対偶(高校の 『数Ⅰ』 の教科書 「集合と論理」 参照)をとれば、「負けたのは、正しくなかったからである」 ということになるではないか。

かくて、戦前の日本の行為はすべて悪かったとして、十把ひとからげに否定されることになる。

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