琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと 番外編その4

うがみんちゅ

前回の記事で琉球王府の為政者たちが執拗なまでに禁令を発布して、ユタを取り締まろうとした理由について述べました。彼らがユタを目の敵にした理由はもう1つあって、それは当時の士族たちが儒学を中心とした漢学で教育を受けていたことです。

首里や那覇、久米、泊の士族は幼少から儒学の教育を受けます。その結果、漢学流の合理性を身につけることになります。では漢学流の合理性とは何でしょうか?それは呪術を否定することです。

呪術とは神(超自然的な何か)にアクセスして、そしてそれをコントロールする技術のことですそして呪術的な思考は超自然的な何かにアクセスすることで、人間に対して利益をもたらすという考え方ですが、儒教はこの発想を明確に否定します。日本人大好きの論語を一読すれば儒学に呪術的思考が全くないことが分かります。

困ったときには超自然的な何か(神様など)にすがりたい気持ちは世界共通です。琉球王国時代のユタはまさにそのための技術者で、当時の社会状況から需要に事欠かない状況でした。それ故に漢学流の合理精神を身につけた為政者たちからは目の敵にされたのです。

なぜユタを信じるのか(友寄隆静著、月刊沖縄社、1981年刊行)に琉球・沖縄の歴史のおけるユタ関連の年表が記載されていましたので抜粋します。

1670年(尚貞2、寛文10) 羽地朝秀、時大屋子を廃止。

1673年(尚貞5、寛文12) 羽地朝秀、仕置を発布。

1712年(尚益3、正徳2) 首里赤田村でユタの夫婦斬罪

1717年(尚敬5、享保2) トキユタの占いが原因で聞得大君と摂政、三仕司が大衝突。

1718年(尚敬6、享保3) トキユタ禁止令が出る。

1732年(尚敬20、享保17) 蔡温、教条で巫術を禁止する。

1736年(尚敬26、享保21) ユタが病人を治療することを禁止する。

1786年(尚穆35、天明6) 琉球科律*、糾明法条制定。

1795年(尚温1、寛政7) 評定所からトキユタ処分の令達、この頃浦添王子尚図、首里城内の神棚を破壊し、トキユタを処罰する。

1831年(尚育4、文政13) 新集科律*が制定される。

1835年(尚育8、天保6) 羽地間切の内法にトキユタに関する科罪(罰金刑、所払い)等が既定される。

1854年(尚泰7、嘉永6) 恩納間切の内法にトキユタに関する科罪(罰金刑)が規定される。

1874年(明治7) 八重山の内法でトキユタに対する科罪が規定される、この科罪は役人にも適用される。

1884年(明治17) ユタの医療行為を禁止する。

1887年(明治20) 久米島具志川、仲里間切においてユタに関する科罪(罰金刑)が規定される。

1913年(大正2) 那覇市東町の大火災に際して流言をまき散らした件で、那覇署がユタ数人を検挙。

*琉球科律、新集科律は琉球王府で編纂された刑法典のこと。 

一読すると禁令が多いことがわかりますが、実は間切内法を含めると相当な数になります。それだけ王府の為政者や間切・村のおえか人(役人)たちにとってユタの権威は危険な存在だったことが分かりますが、ユタ商売は根絶どころか逆にますます繁盛するありさまです。ではなぜユタは根絶しなかったのでしょうか。(続く)

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