
ここでちょっと話が飛びますが、世界の歴史における三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)において、呪術的思考の排除に成功した宗教はイスラム教だけです。ではイスラム教がどのようにして呪術を克服したのを考えてみましょう。
イスラム教とキリスト教は一神教かつ偶像崇拝を禁止します。この点は共通ですがイスラム教は偶像崇拝を厳禁します。その徹底ぶりは礼拝所にアッラーや預言者ムハンマドの肖像が一つもないことでも分かります。偶像崇拝の禁止を徹底化させることで、呪術的思考の排除に成功しますが、布教から1300年を経てもその精神が継続されていることには驚きを禁じえません。
キリスト教の場合は、いつの間にか呪術的思考が侵入してしまいます。たとえば7つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、結婚)はキリスト者でないブログ主から見ると呪術にしか見えません。第一イエス・キリストの肖像も本人かどうか分かりませんし、キリスト像の前で一心不乱に礼拝する姿は偶像崇拝そのものです。その行為に対してイスラム教徒が猛烈に非難するのも当然なのです。
原始仏教にも呪術的思考はありません。ただし日本に導入されたときはすでにどっぷり呪術の世界に染まった状態でした。仏像拝んでご利益の精神は呪術そのものですし、日本人大好きの般若心経を何回も何回も写経すれば功徳があるなんて呪術的思考以外何物でもありません。本来の仏教は呪術的行為には無関心です。
イスラム教が呪術的思考を克服した*のはその教義が明快であったことが最大の理由です。キリスト教の予定調和説や三位一体説のような意味不明な理論を教義から排除したのが特徴です。仏教のようにべらぼうに長い修行期間も設けていません。神が提示した教義を順守すれば最後の審判で天国ルート確定ですので、こんな楽なことはありません。現世の利益を得るのではなく死後の利益に特化しているのもポイントです。
*イスラムの歴史においても例外的に呪術的な存在があります。聖人ヒズルに対する信仰で、航海に対するご利益があると信じられてきました。
それとイスラム教には女性の法学者が存在していたことも呪術的思考の排除に成功した理由と思われます。イスラム教は早い段階から女性の法学者が存在して、地域の礼拝所で活動しています。彼女ら法学者は女性大衆にとっては良き相談相手になります。我が沖縄県において学問ある女性が地域住民の相談相手になるのは1920年代に入ってからですので、イスラム教の先進性には本当に驚くばかりです。
イスラム教において、教義が単純明快で、男性だけではなく女性にも活動の場を保障したことが呪術的思考の排除に成功した要因と考えると、琉球・沖縄の歴史において琉球王国の時代に呪術の世界にどっぷりはまってしまった理由がよくわかります。すべての女性たちが文字を知らず学問の世界から遠ざけられた結果、呪術的思考の克服ができなかった点にユタを目の敵にしていた当時の為政者たちが最後まで気づかなかったのです。(続く)
イスラム教がキリスト教との比較で呪術的思考の排除に成功しているという説は、イスラムへの無知としか思えません。秘跡が呪術に見えるなら、ハッジで行われるタワーフ、サワイ、ジャマラートの投石も呪術に見えると思うんですが。ムスリムは生贄もいまだにガチで捧げますよね。イスラムの教義が単純明快!クルアーンは矛盾だらけですが明快なんでしょうか。ハディースの長大で読みにくいセンテンスのどの辺が単純明快なんでしょうか。スンニ派とシーア派の違いを、どうしたら単純明快に説明できるんでしょうか。三位一体説が意味不明なのは同意ですが、呪術的思考とは対極にあるように思うのですがどうでしょうか。あと、17世紀のライプニッツの予定調和論が、何故この文脈で言及されるのでしょうか。
近世の琉球藩の議論には感銘を受けましたが、あなたのキリスト教、イスラム教に関する議論は錯乱しているとしか思えません。中世琉球の議論も高良倉吉の根拠にかける議論を鵜呑みにしており、凡庸な印象を受けます。明治時代の文献は読めるが、古文漢文は読めないのでしょうか。
貴重なご意見ありがとうございます。イスラム教に関しては勉強不足な点は認めます。
呪術の本質は「超自然的な何か(ここでは神)を操る」ことに特徴があり、イスラム教では戒律において偶像崇拝を徹底化することでその精神を否定していると解釈します。
ハッジのタワーフも投石も神を操るという発想で行っているわけではありません。生贄に関してもそうです。
勉強不足の点は否めませんが、ブログを続けることで少しでも論理の欠点や矛盾を解消するよう勤めますので、今後とも気になる点がありましたら遠慮なくご意見ください。
【追記】中世琉球の議論も高良倉吉の根拠にかける議論を鵜呑みにしており、凡庸な印象を受けます。←このご指摘は意外でした。ブログ主は高良先生の本は殆ど読んだことありません。例外は琉球王国(岩波新書、1993年刊行)を
読んだだけです。主の中世琉球のベースは沖縄歴史散歩(大城立裕、1980)と沖縄の歴史(比嘉朝潮、1959年刊行)です。それと現代の歴史家が記載されている歴史教科書を数本程度読んだことあります。それゆえ高良先生を根拠にという主張にはびっくりしました。
つまりあなたの脳内では、7つの秘蹟は「神を操る」行為に見えるんですか(笑)火あぶり確定ですね(笑)
http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/11-05/11-05-09.pdf
我々はジャーヒリーヤ時代(イスラムの信仰を
受け入れる前の時代)にルクヤをおこなってい
た。われわれはこれについてムハンマドに「ル
クヤについてどのように思われますか」とお尋
ねした。すると彼は「あなた方のルクヤの言葉
を私の前で唱えて見よ」と申され,更に「それ
に多神教についての何かが無ければ差し支えな
い」と申された。
ちなみに「邪視が災禍を招くことは真実である」と
いう預言者のハディースからもわかるように,邪
視は当時もっとも恐れられていた災禍であった。
現在でも中東のバザールでは邪視よけのお守りが
売られている。子供は大抵お守りを身に付けてい
るし,
自動車の運転席にもお守りが掛かっている。
イブン・ハ
ルドゥーンは『歴史序説』の第6章「学問の種類,
教育の方法」の中で魔術について詳細に論じてい
る。魔術的諸学問はイスラム世界で高度に発達し
ていたので,イブン・ハルドゥーンは学問の分類
を論じ,各学問を概観するときに,魔術を無視す
ることはできなかったのである。中世イスラム世
界で発達した魔術は預言者の時代の民間信仰・お
まじないに近いものではなく,ギリシャに起源を
持つ立派な学問であった
イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教を手本として誕生したもので
その教義も様々な特徴を共有しています。
もっとも重要なのは、イスラム教は、
脳内世界で生きるあなたと違って
生きた人々の間で教義を発展させてきており
理想と現実の矛盾の中で、いくつもの辻褄合わせを余儀なくされてきた、
ということですね。
預言者のハディースにおいてすら、呪術への態度に混乱があること
そして後代のイスラム法学者は呪術に対して寛容であることは
その一つに過ぎません。
>主の中世琉球のベースは沖縄歴史散歩(大城立裕、1980)と沖縄の歴史(比嘉朝潮、1959年刊行)です。それと現代の歴史家が記載されている歴史教科書を数本程度読んだことあります。
とても低レベルですね。
もしかしてあなたの近世史の議論も、ただの孫引きで
あなたが史料を直接読んで解釈した結果ではないのでしょうか。
もし孫引きだとしても、よろしければ何を元に書いているのか
教えてもらえませんか。
近世史に関する主張自体にはとても感心したので
もともと誰の主張なのかを知りたいです。