琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その2

琉球王国時代の教育制度は19世紀に完成します。教育機関は都市部である首里と那覇に設置*されていました。入学資格があるのは士族のみ(那覇や首里にも少数ながら町百姓が住んでいました)で、入学時期は7歳からです。

*首里と那覇(あるいは久米)では進学ルートが違いますが、入学の時期と受講内容はほぼ同じです。 

最初に入学する村学校(現在の小学校に相当)では主に漢学を受講します。1875年(明治8)12月に河原田盛美氏がその著書「琉球紀行」で那覇市内の4つの学校(西村、東村、若狭町、和泉崎)を視察した件が記載されていますので、一部紹介します。

明治8年12月10日、那覇4か所の学校に至り生徒の課業を試る左の如し 

西村学校教師2名生徒100名余り 

上原仁屋(小学第二講、歳17)、永田仁屋(小学五講、歳17)、根路銘子(論語一講、歳17)、東恩納仁屋(論語二講、歳22)、嘉手川其三良(論語一暗唱、歳13)、古波蔵思加那(古文前集太白酒の文、歳13)、島袋思武舎(古文核集四、歳13)、花城松金(中庸暗、歳14)、上原仁屋・花城松金書(道)。 

東町、若狭町、和泉崎(おそらく現在の那覇市泉崎)の学校についての記載は省きますが、教育内容はほぼ同じです。一部不明な項目はありますが教育内容は漢学中心で間違いないです。年齢にばらつきがありますが、これは那覇の場合は現代でいうところの小中高一貫教育だったからです。

教師(講談師匠)の給与の記載はありませんが、首里に設立された国学(琉球王府の最高学府)の講談師匠は1人あたり8石との記載がありました。現在の価格ではどの程度は判断つきませんが給与面での待遇はよくなかったかもしれません。

河原田氏の著書「琉球紀行」は当時の琉球藩内の情勢を知るうえで貴重な記録ですが、那覇の村学校を視察した際の生徒名を何度確認しても女性が見当たりません。理由は村学校の受講者に「女」の注意書きが一件もないからです。河原田氏は「琉地曾て女子に学問を為さしめず。と記述しているので、村学校で女生徒が受講している場合は必ず「女」との但し書きを載せるはずです。

伊地知貞馨氏の著書「琉球士略」には

学校は首里に18、那覇に4久米に2、泊村に1、宮古島に2、石垣島に2あり。各町の学校皆程朱派にして孔孟の道を講ず。 

と記載ありますので、河原田氏は那覇にある4つの村学校をすべて視察しています。その際に女生徒が一人もいなかったことは、少なくとも那覇の士族の子女は教育の機会を与えられていなかったことの有力な証拠と捉えて間違いありません(続く)。

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