琉球・沖縄の歴史の個人的な謎 近代にいたるまで女性が文字を読めなかったこと その8

ootatyoufu

往年の那覇の商業の実態については沖縄県政五十年(太田朝敷、昭和7年刊行の第七章に詳しく記載されていますので、その中から幾文か記載します。(五、商業の発展より抜粋、旧漢字はブログ主にて訂正すみ)

今日の那覇の市街(昭和6年ごろ)は、泉崎を除く外には石垣囲いの家屋も少ないが、置県の初の頃(明治12)は、通堂から大門通、石門通りの如き目ぬきの商店街でも、城壁の如く本県特有の石垣囲いで、街路に面した店舗などは一件もなかったのである。店即ち町屋(マチヤ)といえば、東大通に板、鍋釜類を売る小店が数件並んでいた位で、この通りは名称も東町屋通りといはれたのである。これで見るも藩政時代から県政の初期にかけて商業が振るわなかったことは察せられるるだろう。

商取引はどんな風に行われていたかといふに、その七八割は婦人の手で行なわれていたのである。第一市場では売買ともに近在の婦人と那覇の婦人の手によるものが多く、キシゲーと称する露店や、東町屋の主人や、各種の行商が殆ど婦人であった。然らば商品の仕入はどうしたかといふに、卸店には極まった仲介者があり、この仲介者は例外なしに那覇の士族の婦人で、穀類でも茶でも素麺や油類でも、露店の持主や行商人たちが仕入に来ると、仲介者が程よく配当してやるという仕組みになっていたが、仲介者はそれで何分かの口銭を取ったもので、この風は藩政時代からの遺風である。

市場では那覇では那覇市場(ナーハノマチ)を中心として、波上通の鳥居の前(今の天孫廟前に鳥居の跡が置県後までもあった)、泉崎橋の袂、潟原(カタバル)の前、泊、垣の花等にあり。首里では今の池端町の大通の左右、即ち首里市場(シュイノマチ)を中心として、赤田町の東端に赤田市場、儀保町の北端に平良(テイラ)市場があった。これ等の市場に出る物は、何れも近在の甘藷や野菜が主たるもので、その外米や麦粟や豆腐なども出れば魚類も出た。那覇に於ける牛豚肉は、今の新天地から三杉摟辺一帯が、屠獣場兼販売所になっていた。要するに何れも市場も多くは女が占領し、そこには余り男を見えなかったのである。

すこし長くなりましたが、要点をまとめると以下の通りです。

1.琉球藩および廃藩置県初期の時点では大店舗が存在していなかった。

2.那覇の市場にはリーダー格である女性の仲介人が存在していた。

3.那覇や首里に露店を中心とした市場があったが、何れも多くは女性たちで運営されていた。

ここで重要なのは2番で、琉球王国(あるいは琉球藩)の時代において商業に携わる女性の中に仲介人が存在して、彼女らが商品の仕入れや配当を仕切っていたことが分かります。問題は彼女らの中から廃藩置県後に経営者になった人物が一人もいないことです。理由は簡単で彼女らは算数を知らないために、巨額の金額を取り扱う経理の能力が欠けていたからです。そのために廃藩置県後の沖縄県の産業経済活動は、大量仕入れや経理の能力に長けた日本人(鹿児島系と大阪系)に牛耳られてしまいます。(続く)