1913年(大正2)のユタ裁判 その4

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前回までに記述した第一回の公判の内容をまとめると

仲地カマドさん

1.2月17日に具志堅マウシさん宅を訪問したことは認めるも、容疑内容については「覚えていません」。

2.自分はユタをする身分ではない。

3.祈祷は自分のために行うもので、他人に対して行ったことはない。

前島清三郎弁護士

1.被告の弁解は一々信用できない(この部分は笑ってしまいました)。

2.ただし警察の取り調べだけでは信用できないため、具志堅マウシ、城間ゴゼイ両人の出廷を要請。

になります。第一回の公判で気になった点は「前島清三郎のような人物が」のくだりですが、明治弁護士列伝(明治31年著)の記述によると漢気あふれる人物かと思われます。1892年(明治25)に那覇に地方裁判所が設立され河合淡氏(大阪控訴院部長判事)が初代所長を命じられた際に「嗚呼、幾千の判官中また其人なき乎(意訳:何で俺が???)」と嘆いたことを聞いて「では私がお供しましょう」と進んで那覇地方裁判所に判事として赴任したエピソードがあります。

その在任中は忠実に業務をこなし、1895年(明治28)に判事を辞職。その後は弁護士として活躍します(明治31年には沖縄県那覇区字久米に住んでいたとの記述もあり)。

ブログ主は意外なところで前島氏が社会的名士であったことを見つけました。田港朝和氏の論文「謝花昇年草稿」のなかの沖縄農工銀行の重役資格人名の中に前島氏の名前があったのです。沖縄農工銀行の定款によると、頭取、取締役は30株以上の所有者となっていたのですが、30株保有者は31名しかいません(1898年当時、謝花昇、尚順、神村吉郎、高嶺朝教など錚々たるメンバーが保有者です)。県外人でありながら平尾喜三郎氏*とともに前島氏も頭取、取締役になれる資格を持っていたということは、当時彼が名士として社会的に認知されていたと考えても間違いないでしょう。

*平尾喜三郎 1873年(明治6)奈良県生まれ。1883年(明治15)に父喜八と共に来沖。大日本帝国時代における沖縄県内最大の経済人。その業績の説明は今は省きます。 

話はそれましたが、では1913年(大正2)3月1日に行われた第二回の公判を記述します。この時に前島弁護士から証人として出廷要請があった具志堅マウシさんは病気のため出廷せず、城間ゴゼイさん(44歳)がひとり出廷します。ここからがこの裁判の面白いところで、彼女の登場でカマドさんは窮地に追い込まれます。

1913年(大正2)、3月1日 那覇区裁判所にての第二回公判(琉球新報の記事は3月2日、3面に記載)。

ユタ仲地カマドの第二回公判はきのう(3月1日)10時半より那覇区裁判所で開かれた。一昨日の被告人弁護士の請求に係る城間ゴゼイ(44)、具志堅マウシを証人として取り調べることになっていたが、具志堅マウシは胃病で出席せず、城間ゴゼイ独り出廷した。同人は区内中流の家庭に育ったため親戚知人の付添い多く、落ち着き払って出廷した。区内知名士夫人の証人呼び出しは大評判となって、傍聴に駆けつけた男女四、五百名。殊に婦人に大受けのようで、傍聴の八分通りは女。傍聴の過半数は廷外にあふれ、窓越しにのぞく者もあって大変な喧噪であった。(続く)

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