あの頃を語る 安村つる子女史の思出話 その2(原文)

學科は今と大した差はないが敎授方法や形式が今とは異つてゐまして餘程滑稽なのもありました。圖畫の時間などは今ぢや鉛筆クレオン水彩畫などもやつておりますが私の時代はら日本畫でして墨繪でした。疊の上に紙を敷きましてそれへ筆を運んでゐたものですよ。墨繪だと言ひますと今は日本全國どんな學校を搜しても年が年中筆で繪を畫かせてゐる學校はまあ無いのでせうね。音樂の時間もですね、今ぢや樂譜の符號でやつてゐますが私たちは123でしたが今でもこの123式はやつてゐますけどドレミでなくわたしたちはヒフミと發音してゐました。つた唱歌も國歌とか「金剛石をかずば」等でした。

女子講習科二ヶ年を卒業したのが十八の春でした、これから愈々敎壇に立つかと思ふと一種何とも云へない感慨にうたれましてね、琉裝の儘ですからね。ずつと講習科二ヶ年を琉裝で通して卒業して敎壇に立つても矢張り琉裝でした、琉裝姿で敎壇に!と云ふと今ぢやどんなに見ようとあせつたところでね、見へるものぢやないですからね、オホホ………敎壇に立つてみるとサア大變です、生徒を敎へながらつくづく琉裝の不便を感じ出しました。不便を感じたばかりでなく琉裝の非時代的なることを自覺して十九の新學期始めに思ひ切つて和裝に變へました。振袖姿にすると、親類近所の人々から猛烈な非難罵詈酷評など亂れ飛ぶ有樣です。

ひどかつたですよ。「久塲ぬチルーがヤマトンチユーナタン。ウヌヒヤーやなアやがてカラヂんウシチツチヤーにウランダー小なへーさに。」など姦しい女たちや今や會的知名の人々からさへ飛んだ非を受けました。私たちより一級下で今女史師範の先生をしていらつしやる武富ツル〔正しくはセツ〕さんなどは敎壇に立つ迄には琉裝を廢していらつしやいました。第一高女の方は最初の入学學者から袴制度になつてゐまして琉裝の女學生などはゐませんでしたが髪はマーユーヰーだつた樣です。私たちの時代には子供あっちが男女仲よく遊ぶと「カーラブッテー」などと言ひはやされて非されましたがね。おかしな話です。

こうして永い間敎育畑にゐますと私たちが經て來た跡を振り顧みて沖繩女學生の服裝の變遷も余程面白いものです。最初は琉裝でして、それが私たちが初めでまた最後です。その次に振袖姿になり更に變つて袴制度になり袴の色も海老茶でしたが三四年後女學校が設立されたので海老茶は不經済だからとの理由で黑の毛朱子袴に變りましたものですから女學生は毛朱子袴で大道闊歩したものです。こうした珍現象も間もなく紫や赤海老黑海老茶となりまして現在では袴制度も頽れて颯爽たる洋服制度に變るやうになりまして、女學生諸孃の顏色も明るくなつたやうな氣がしますよ。まあこんな風で私が琉裝で敎壇に立つた時代は夢のやうな大昔の感じがします。

このやうに服裝の變遷と共に引込主義の沖繩女性が其陋習の殻を破つて澎はいと寄する時代の波と共に敎育への理解も高まつてきたのは誠に喜ばしい現象です。」(昭和7年4月9日付琉球新報‐切り取り史料)

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