コザ暴動について – 新聞報道

今回は昭和45(1970)年12月20日付、および同月21日付琉球新報のコザ暴動に関する記事を紹介します。この事件のすごさは新聞記事にも反映されて、コザ暴動が発生したのが20日午前2時ごろですが、なんと当日朝刊13面に事件の一報が掲載されているのです。

記事を参照すると「午前4時現在」との記述がありますので、この時間までに記事を書き上げて同日朝刊に掲載したことになります。当時の記者たちのスクープに対する執念すら感じる記事全文をご参照ください。

けさコザ市で暴動

嘉手納基地にも放火 / 米軍車両30台が炎上

【コザ】20日午後11時50分ごろ、コザ市胡屋付近で外人車が沖縄人をひき負傷させたが、そのまま逃げた。さらにこの後、外人運転の車が沖縄人運転の車に衝突した。MP隊が事故処理に当たったが、この事故処理に不信をいだいた住民約50人が、MP隊を取り巻き、ば声をたたきつけた。この動きに恐怖を覚えたのか、MP隊が威かく射げきをしたため、住民がMPカーをひっくり返し放火。この騒動をきっかけに、胡屋から中之町、園田にいたる約1㌔に道路でMP車や米軍車両に対する放火が始まり、さらに住民約1000人が集まって騒ぎ出した。

それから約15分後近くの嘉手納基地ズケランの部隊からカービン銃で武装した兵隊約200人が現場に急行、胡屋から園田に至る主要道路を封鎖、暴動鎮圧行動に出た。付近一帯の住民約2000人近くが道路を封鎖している武装兵、憲兵隊員を、ば声やど声を投げかけている。しかし、米軍武装兵、憲兵隊員が発煙灯などを群集に投げつけて、暴動を鎮圧した。

暴動は嘉手納第2ゲートに通ずるゲート送り、センター通りの通称白人街まで飛び火。MPカー軍車両、イエローナンバーの車両はつぎつぎにひっくり返され放火され炎上している。午前4時現在全焼した米軍車両の数は約30台を上わまろう。(昭和45年12月20日付琉球新報13面

20日の夕刊は休刊でしたので、翌21日の朝刊1面記事を紹介します。今回は解説なし(無修正版)を掲載しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。

炎上車両は75台に

コザ署 “報復” に非常体制

騒動の起こりはコザ市上地296、中地自動車修理工場前の24号線で米兵車による交通事故。20日午前1時半ごろ、忘年会帰りの具志川市安慶名298,軍雇用員、翁長清一さん(39)が京都ホテル前の24号線を横断中、米陸軍キャンプ桑江の医療センター所属教務兵ジェームス・R・ハロルド(30)運転の乗用車にはれられ倒れた。

間もなく、事故現場には米憲兵とコザ署員がかけつけ事故調査を始めようとした。ところが、さる9月18日、糸満町で起こった金城トヨさんれき殺事故の無罪判決にいきどおりを感じている沖縄住民が現場に押しかけた。

そして、「人をひき殺した加害者外人は無罪になった。どうせ、こんどの事故調査も処分もでたらめにするのだろう」と憲兵の事故調査を拒んだ。ちょうど、この時間は中の町歓楽街からの飲み客が帰宅する時刻で、最初5~6人だった市民もしだいにふくれあがった。2時ごろ、事故現場近くで外人運転の乗用車が沖縄人の運転する車に衝突事故を起こし、騒ぎはさらに大きくなった。そこへ、憲兵が群衆をけ散らそうと短銃を上へ向けて威かく発砲したため、群衆は激高した。

群衆の数は1000人とふえ、ついに憲兵隊のパトカー2台にガソリンをかけ、炎上させた。加害者の米兵の身柄はコザ署に連行したあと憲兵隊に引き継がれたが、群衆は静まるどころか、沿道に駐車中の軍ナンバーやシビリアンの車両をつぎつぎ焼き打ちしはじめた。

午前4時までにつめかけた群衆はおよそ4000人(警察発表2000人)。第1事故現場を境にして、島袋、諸見の方向と嘉手納基地第2ゲート通りの二手に分かれて、「ヤンキー・ゴーホーム」「糸満町のれき殺事故をくり返すな」「沖縄人をこれ以上ばかにするな」のシュプレヒコールを叫び、怒りをぶちまけつつ進んだ。

群衆のうちおよそ200人(警察発表)は第2ゲートに面している沖縄人軍パス発行事務所の建て物を襲い、炎上させたあと、嘉手納航空隊内になだれ込み、道路中央に立っているガードボックスの窓ガラスを投石で割った。ゲートから約300㍍基地内にある米人小学校3むね8教室を焼き払った。

基地内で待機していた米軍の放水車が基地突入を図った群衆に放水した。そのさい、沖縄人19人が公務執行妨害や放火の疑いで憲兵隊につかまったほか、軍車両放火の疑いで1人が民警察につかまり、逮捕者は全部で20人にのぼった。

そのあと米軍は約250人の完全武装の憲兵隊を出動させ、第2ゲートの警備に当たった。米軍はコンディション・グリーン1を発動し、米人の外出禁止を指令し、ズケラン十字路では交通をしゃ断した。

一方、島袋方面へ向かった群衆は警備に配置された憲兵隊に投石で押収しながら車を焼き払いつつ進んだ。中之町、諸見両派出所に投石、電話線を切った。諸見と島袋では憲兵隊が催涙ガスを8個発射した。このため、一帯はガスやタイヤの焼けるにおいが充満し、住民は「毒ガスを使ったのではないか」「まるで、戦争みたいだ」と目、鼻、口を押え逃げだすものもいた。

出動した約500人の警官隊は群衆に制圧されてほとんど手が出せず、しきりに協力を呼びかけた。夜が明け同7時半ごろ、ようやく騒ぎはおさまったが、夕方まで火はくすぶりつづけた。

この騒動で警察本部の調べではMPを含め外人10数人、警察官5人、民間80数人が軽傷を負った。また総計75台の自動車が炎上した。

コザ署では、午前2時すぎ警備本部(本部長・豊崎孟善コザ署長)を設置したが、今後、米人の報復行為が心配されるため20日夜は非常体制をしいた。(昭和45年12月21日付琉球新報1面

最後におそらく初めてご覧になる沖縄県民も多いと思われますが、ランパート高等弁務官の声明全文を紹介して今回の記事を終えます。

毒ガス移送中止も

弁務官が声明 “批判”の口実にならぬ

声明(全文)

けさ、コザ市に暴動が起こった。軍ナンバーの車が沖縄の歩行者にぶつかり、軽いケガをさせた交通事故がこの暴動の起こりである。このことはただちに恐かつ的な群衆にかこまれ、かけつけたMPはやっとかっとこの軍人を救出したのである。その直後だんだんふくれ上がった群集により2つのMP車に放火がなされ、破壊された。某同社の一部は次々嘉手納記事近くのゲート通りに移り、石やあきビンを投げはじめた。一時的に基地内への突入が成功するや、さらにその他の自動車や米人学校の5つのクラスに放火し破壊したのである。一時間以上もかかって、やっと暴動者を基地外に押し出すことができた。

さらに別の大きな暴動者のグループは現場から南下し、諸見里通りに行き、いろいろなものを投げはじめた。この暴動が島袋三差路の交差点に達すると、知念主席代行と新垣警本部長の命により待機し、MPによって支援されていた琉球警察機動隊によって待ち受けられていた。暴動者がこの隊列を突破し、プラザ家族地域への突入を防止するため、特に私の命により、催涙ガス弾を8個使用する場面もあった。明け方になって、群集はやっとちり出し、秩序が回復された。その間、米人の自家用車が大部分を占めた80台以上の車が破壊されて道路に残がいをさらし、幸い重傷者はなく、30人のケガ人を出し、19人が逮捕される結果となった。

このなげかわしい事故は、1人の海軍軍曹の判決が無罪となったことに部分的に起因すると、私はきいているが、判決の結果を妥当とせず、これを批判することはあり得る。しかし、平和な市民の生活をおびやかし、財産を破壊するように、批判を暴動などの手段にうったえる口実にはならないのである。このようなことはジャングルの世界である。

今回の暴動は沖縄に貯蔵されている化学兵器に対する関心といきどおりによっても影響されているのではないかといわれている。もしそうであるならば、これらの騒動は全くその結果において自己敗北を示唆するものである。すべての人々にとって、完全に安全対策にのっとって、アメリカ合衆国も一刻も早くこれらの化学兵器を撤去したいという意図は、沖縄の人と同様強いものである。

150㌧にのぼる化学兵器の第1回積み出しを完全に安全に行う計画は完了している。これらの安全撤去計画を遅延させる唯一のものは、撤去作業に対するじゃまやサポタージュなどの可能性である。私はこのような脅威が完全になくならない限り撤去作業の開始を承認しないことをここで確言するものである。

現在は復帰のための特別な条件と取り決めが日米琉3政府間で形成されつつある時期であり、多くの沖縄の人々にとって、関心の深い時であることを私は知っている。これらの条件と取り決めが沖縄の人々にとって満足のいくものであるようあらゆる努力が払われつつある。けさの暴動は2つの目的を阻害するものであり、また、全く破壊的であり、特に沖縄の人にとってしかりである。

これまで率直に語ってきたが、私は与えられたすべての手段で住民の利益を増進したいという私の誠意を理解してもらいたいと祈念するものである。けさのような事故が再発しないように、そしてわれわれの多くの共通の基本的な利益のためにともに力を合わせるよう全琉球の人々の理解と支援に私は期待を寄せるものである。(昭和45年12月21日付琉球新報1面

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