ロックとコザと “おクスリ”

ご存じの読者もいらっしゃると思われますが、これまで当運営ブログでは「オキナワン・ロック」はNG扱いでした。理由は複数ありますが、その一つに(すでに言及してますが)公開史料の乏しさがあります。80年代中盤以降からインタビューやドキュメンタリーを中心に、オキナワン・ロックの史料が散見されるようになりますが、それを裏付ける彼らの全盛期、すなわち昭和40年(1965)から昭和52年(1977)までの史料がなかなか見つけられないのです。

ただし、昭和59年(1984)6月30日から57回掲載された特集記事『喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄』(沖縄タイムス)と、他史料(『ロックとコザ』など)を照らし合わせた結果、喜屋武さんのコラムは信ぴょう性が極めて高いと判断できたので、当ブログの記事作成における一次史料として活用しています。

※『ロックとコザ』など80年から90年代のインタビュー記事では時系列に矛盾が生じるケースが多々あったのですが、『喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄』と照合することで、ある程度補正ができたのが大きかったです。

史料の件はこれでクリアできましたが、やはりというか何というか、オキナワンロックを語る上でどうしても欠かせないのが “おクスリ” との関わりであり、実際に復帰前後の新聞をチェックすると、バンドマンがおクスリ所有(ヘロインが多い)で逮捕されたニュースが散見されます。

ちなみに『喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄』には、一般紙連載にも関わらず “おクスリ” に関して何と57話中7話も言及しており、それはつまり80年代の沖縄県民(とくに旧コザ地区の住民たち)は彼らの実態を良く知っていて、隠しようがなかったというわけです。

以前にも言及しましたが、ブログ主が蒐集した “おクスリ” に関する公開史料(新聞記事や警察史料)によると、我が沖縄社会で薬物乱用が初めて問題になったのは昭和42(1967)のシンナー(栃木県発祥)から始まり、翌年にはベトナム戦争帰りの米兵たちによって大麻(マリファナ)が大流行、そのあとヘロイン、コカイン、そして大衆文化に最も影響を与えたLSDがあります。(80年代からはブロンなどの風邪薬の乱用も社会問題になります)

その結果、復帰前後は “日本一の麻薬汚染県” とのありがたくない名称をいただくほどコザを中心に “おクスリ” が蔓延し、そしてその一翼を担ったのが当時米兵相手に商売をしていた琉球住民のバンドマンたちなのです。誤解を恐れずにハッキリ言うと、コザを中心に発生したロック文化は

我が沖縄の大衆文化の歴史上、唯一 “おクスリ” が絡んでいるジャンル

であり、それ故にブログ主は、「お前らが愛と平和を語るなんて反吐がでる」と、この分野を毛嫌いしていた時期がありました。

令和の今日、当時のメンバーが「私は麻薬に手を染めていません」と言えばそれまでなんですが、その言は喜屋武さんの証言とは真っ向から対立します。1960年から70年代の世界のロック業界は “おクスリ” と密接不可分であり、沖縄だけが例外とはとても言い難い現状があったのです。(続く)

(中略)アメリカ総コピーのおれたちも、サイケデリックはもちろん、マリファナにLSDがあっという間に大流行、画一化されたスタイルで上品に演っていたのが、サイケデリックな服装に髪やヒゲをのばし、麻薬を吸引してステージに立つようになった。

そして、ジミー・ヘンドリックスが登場、沖縄のバンドは競って「紫のけむり」を演奏した。ちなみに、Aサインで売られているパープルヘイズは、この紫のけむりのこと。

この音楽は麻薬を体験しないと理解できないといわれ、

沖縄のロッカーたちは皆一度、このマリファナLSDを体験したと思われる。

Aサインにはヒッピーや脱走兵、GIやフィリピン人、沖縄人のにわか売人が入り乱れ、大金を作るのが容易なため、おれたちのロック界からも多くの逮捕者を出してしまった。

引用:昭和59年9月29日付沖縄タイムス夕刊2面『喜屋武幸雄のロックアラカルト沖縄』〈13〉より抜粋

SNSでもご購読できます。