太田朝敷関連の史料

太田朝敷関連の史料まとめです。史料は随時追加します

※令和05(2023)年1月15日、ブログの大整理のため、当ページの誤字脱字の訂正、レイアウト変更、および資料を追加します。今回のチェックで興味深いのが、「おおた姓」の表記に関して、大正5(1916)と昭和12(1937)の資料では「大田」と表記されている点です。ちなみに、昭和5(1932)年に刊行された『沖縄県政五十年』では「太田」と名乗っているため、案外当時はどっちでも良かったのかもしれません。

ちなみに、旧漢字は読者の便を図るべく訂正済なので、原文は引用元リンク先でご確認いただけると幸いです。

沖縄県人事録 楢原友満 編(大正5年)

実業家としての君(大田朝敷)、操觚者としての君、共に定評あり。然も政客としての君亦県下に冠たるに至っては偉なりというべし。君は慶應元年四月首里区山川町に生る。明治十五年本県師範学校在学中東京に留学を命ぜられれ、上京後は学習院及慶應義塾に学び、同二十六年業成りて帰県し、琉球新報社創立に力を竭して其記者となり、爾来幾多の苦難に遭遇して能く今日あらしめ、今や其主筆として名声高し。

同三十八年沖縄砂糖会社を創設して其社長となり、堅忍持久以て能く其経営に任じたりしも、時非にして遂に破綻の悲運に会せしは惜しむべし。

又大正元年島尻郡より選出せられて県会議員となり後間もなく時の副議長玉那覇君の逝去後押されて其椅子に就き、同時に沖縄砂糖同業組合の理事となりしが、大正五年二月を以て全部の職を辞せり。然も県会副議長としての君は仲吉議長を輔佐して能く其任を完うし、其舌鋒甚だ鋭くして皮肉の論客として其名高し。

又琉球新報主筆としては天南或いは竹雨と号し穏健の筆を以て勤勉事に当り、喧々諤々の議論は能く県下を風靡して、社会の木鐸たるに恥じず。其実業界に在るや意志鞏固にして画策事毎に機宜に適し、経営亦凡に非ず、一見瘦身にして髪半白の老紳士なれど精力絶倫也。資性活淡潤達にして見識高邁、人に接して城府を設けず頗る能弁なり、其趣味は高尚優雅にして、美術品を愛し風月を友として特に釣魚を好めり(島尻郡真和志村字天久)

引用元:沖縄県人事録 現代人物之部 オ之部 – 大田朝敷

沖縄県人事録 沖縄朝日新聞社(昭和12年)

君(大田朝敷)は慶応元年四月八日首里山川に生る。明治二十年沖縄県師範学校在学中、県より選抜せられて東京留学を命ぜられ、学習院に入り慶應義塾に学び、帰県するや明治二十六年琉球新報社を創立し大正八年まで二十七ヶ年を本件操觚界に在りて琉球新報社記者及主筆として健筆を揮ひ、言論機関の覇権を握り本県文化の開発に貢献す。此間大正元年には県会議員に当選し間もなく副議長の椅子に就き、同時に砂糖同業組合の理事となりしが、大正五年二月を以て全部の職を辞任し、其後琉球社を退き、時事新報を創立、大正十四年より十五年まで布哇沖縄県人会の招聘により渡布各地を講演行脚、帰朝後首里市長に就任、再び琉球新報社に入り其社長となりて今日に及ぶ、目下海外協会副会長、県農会顧問、郷土協会長其他の要職にあり、本県操觚の大先輩たり。天資聰明にして温和、見識頗る高邁、瘦身白髪矍鑠として経世の道を論じ、高風親しむべき紳士なり。趣味読書。

【家庭】妻貞子さん(明十六)、長女春子さん(大四)

引用元:沖縄県人事録(沖縄朝日新聞社編) オ(ヲ)の部 – 琉球新報社長大田朝敷

沖縄大百科事典 沖縄タイムス社(昭和58年刊行)

太田朝敷 おおた・ちょうふ 1865.4.8~1938.11.25

沖縄の代表的新聞人、政治家。首里山川村(現那覇市)の士族の家に生まれ、伯父太田朝明の養嗣子となる。1872年(明治5)7歳で首里の村学校に学び、80年2月、那覇市西村県庁内の会話伝習所に入り、かたらわ県庁役人川村三二(静岡県人)の個人教育をうけ、新知識を吸収する。1882年、沖縄師範学校に入学、同年11月、第一回県費留学生に選ばれ、他の留学生4人とともに上京、学習院漢文科に入学、のち東京高等師範学校に進む。1886年、養父が死亡、養母の催促で学業を中断して帰郷する。一時、家を出て農家を転々とし、砂糖小屋の釜たきなどをする。この不遇の放浪時代の体験が後年の思想形成の根幹になっていると思われる。

やがて福原実知事の斡旋で慶応義塾理財科に復学する。1893年9月10日、沖縄最初の新聞「琉球新報」の創刊に加わり、論説記者として建筆をふるい、沖縄きっての啓蒙的思想家として知られる。日清戦争のころの開化党と頑固党の対立では、開化党の牙城といわれた「琉球新報」の代表的論客であった。旧藩王尚泰を沖縄の長司とする特別自治制度をめざす公同会運動に加わり、政府の弾圧を受ける。明治30年代初頭の謝花昇を中心とした民権運動に対しては批判的立場をとった。公同会運動や謝花との対立については、後に反省しているが、いずれも現実主義者であった彼の行動の軌跡であったように思われる。

1905年、沖縄砂糖(株)を創立、社長となる。「琉球新報」主筆、島尻郡組合議員などを兼ね、1913年(大正2)の第2回県会議員選挙に当選、県会副議長となり、16年2月までつとめる。衆議院議員選挙や大味久五郎知事の県政をめぐって15年以来、琉球新報内に内紛があり、太田は19年「琉球新報」を去り、末吉麦門冬、又吉康和らも加わって「沖縄時事新報」を創刊するが、わずか1年で廃刊。以後、那覇市西新町で〈南陽旅館〉を経営する。25年、ハワイの沖縄人会の招きで約1年間ハワイに滞在、各地で沖縄の事情を講演する。

1930年(昭和5)又吉康和らが社主尚順から「琉球新報」を買い取ったさい、社長に迎え入れられる。翌年、新聞社社長のまま市議会の推薦で首里市長となり、首里の産業復興に尽力、1933年(昭和8)までつとめる。また井野次郎知事の〈沖縄県振興計画〉に側面から協力するほか、沖縄県海外協会副会長として移民事業も推進する。1932年(昭和7)貴重な近代史料である「沖縄県政五十年」を刊行。思想的には福沢諭吉と親鸞の影響を強く受け、また田原法水と親しく真教寺の門徒代表であった。

晩年、無量寿会を組織、求道にはげみ、高士の風があった。〈天南〉〈潮東〉を号とし、未完の随筆や論文がすくなくない。物欲に恬淡で晩年まで借家住いだったが、1936年(昭和11)に志喜屋孝信、古波蔵正英(医博)らの尽力で、海外・県内から資金が集まり、那覇市松山町に〈無得庵〉を、琉球新報内には山田真山製作の彫像が建てられた。〈沖縄それ自体を家とする〉(東恩納寛惇)典型的な〈社会の木鐸〉であった。73歳で死去、琉球新報社葬となる。〈太田良博〉

明治33年7月3日付琉球新報2面 – 沖縄高等女学校開校式

【沖縄高等女学校開校式】は予定の如く一昨一日師範校内に於て挙行せられたり、其景況を略記すれば午前十時頃第一鐘を以て生徒入場、第二鐘を以て来賓入場、第三鐘を以て奈良原総裁入場し各自着席するや一同起立君が代の唱歌ありて後ち奈良原総裁は勅語を棒読し再び唱歌(開校式の曲)ありて奈良原総裁、小川会長、安藤校長の演説あり、是より来賓なる本社の太田朝敷氏の演説(其筆記は本日の社説欄に揚げたるが如し)隣谷那覇小学校長の演説及び生徒総代砂辺カメ女の祝辞朗読あり斯くて「学びのまど」の唱歌ありて式了れり、一同敬礼順次に退場し会長の案内に依りて教育品を巡覧し女子講習科生徒の遊戯を観て祝宴に移りたるが、当日来賓中の婦人方には各高等官の夫人数名及び尚典君のご息女鶴子姫も見受けられ一層の光彩を添えたり。

明治三十三年七月三日二面 琉球新報

高等女子生徒

沖縄高等女学校入学志願者二十三名の内及第したる者は二十名にして其原籍及び姓名は左の如し(姓名記載順序は成績の席順に由る)

首里区 砂辺カメ(沖縄女性として初めて上京・進学、東洋技芸学校で和裁を学ぶ)

首里区 久場ゴゼ

首里区 渡嘉敷マカト

山口県 弘中テイ

長崎県 加藤ユキ

首里区 伊是名ウシ

山口県 眞田セツ

首里区 尚オミト(後の今帰仁延子さん、尚泰候の孫、尚典の娘にて、最後の聞得大君)

首里区 小禄カナ

佐賀県 齋藤タマ(齋藤用之助の娘)

首里区 谷川ツル

鹿児島 前田キイ

福岡県 木村フヂ

首里区 橋口芳子

首里区 今帰仁ツル

那覇区 田代イソ

徳島県 佐藤リエ

那覇区 新名ヒデ

右の内高等小学校を卒業したるものは砂辺カメ一人にして他は高等三年以下なり、試験の成跡は算術は最も不良なりと云う。

●女子教育と本県(明治33年7月3日、5日)

下記リンクをご参照ください(過去掲載分は削除します)

女子教育と本縣 – その1

女子教育と本縣 – その2

明治36年2月25日付琉球新報2面

◎大阪博覽會と琉球手踊 

本県の人が博覧会を機として大阪に打て出て世界の人々に琉球固有の手踊を観せんとの企てあることは兼々間及ぶことなるが、此事に関しては我輩は元来余り好まぬ事にて、手踊に限らず芝居でも給仕人を出すことでも日本にて普通ならぬ風俗を晴々しく持出すことは成るべく止めて貰ひ度く思ひ居るなり。そは別儀にあらず、本県が兎角全国と調和し兼ぬるは全国人士の頭に風俗人情が全く異れると云ふ観念が刻みこまれ居るにあり。本県の風俗人情が果して根底より大和民族と差別せらるべきや否やに就ては此短き雑報に於て説明し得べき事ならねど、我輩は本県の人情が他府県と多少の相違あるは只程度の問題にしてその差異と云ふも畢竟九州と奥州が多少風俗を異にし人情を異にし言語を異にすると一般其根底に於ては全国共通の要素あるを確認するものなり。然るに博覧会の如き晴場の持出して一寸と目先の異なりたる風俗を示すに至りては最も多数なる浅識の観者の眼に映するはたゞ異様と云ふに外ならず。即ち我沖縄は元来大和民族以外の民族と云ふ観念を確めしむるに過ぎざるべし。左れは本県の大方針たる全国との調和を害するの恐れあり。我輩が昨年より本県風の給仕を出すことに反対したるもこれが為めなり。芝居を出し手踊を興行するを好まぬも之が為めなり。聞く所に拠れば今はそれヾ多少の資金をかけて着手した〔る〕趣きなれば、今更止めたりとも最早無益なるべき、此上は万端見苦しくなき様興行するを望む。世間にては本社も賛成の如く言ひ触すものある由なれば一寸断り度く也

※原文は、後日公開します。

明治36年4月7日付琉球新報02面

〇 同胞に對する侮辱(人類舘)

博覧会よりの報に云ふ。

今回の博覧会に就き吾々沖縄人が実に憤慨に堪へざるの一事これあり候。即ち人類館に沖縄の婦人を陳列したること是なり。一び人類館に入り此陳列品の小屋を見之が説明を聴き陳列品自身の蠢き居る態を見ては常々万事に無頓着なるを以て名高き同行の友人さへ忽ち赤面して逃げ出すの有様にて候他は推して知るべし。

今実地目撃したる一二を御報道可申候、先ず吾々の目につくは家屋にて候、家屋と云へば立派にて候へどもその実茅葺の小屋にて畳さへ辛ふじて敷したる次第に候、然り辛ふじてと申すことには理由これあり候、最初は藁を敷てその上に坐せしむる積りなりしも当人の不服を唱へたるに依り辛ふじて畳にかへたる由にて候、これより推量しても設立者の主意が可也野蛮風に見せるにあることは明白にて候、尚ほ進んで本尊を一見するに何処から拾い来りたるものかまがう方なく娼妓にて候、此処に附属として陳列せるは俗に高麗煙管と称す陶器の煙管とコバの葉の団扇にて候。されば縦覧者の目に映ずる沖縄は同列のアイヌ生蕃と大差これなく候。

又最も癪に障るは説明者の口上にて候、被陳列者其者は賤業婦にせよ沖縄県の体面に対しても少しは遠慮あるべきに鞭を以て差し此奴は云々との口上振り誰が耳に聞いても軽蔑の口調にて御地の埋地にある虎や猿の観世物と異なる所これなく候。

これに対して憤慨するは独り吾々同県人のみならず少しにても沖縄に縁あるものは吾々に対して余程気の毒がる位に候云々。

学術人類館と云へ如何にも立派なれどもこの報道に依れば其実際は世人の好奇心に投ずる観世物的陳列に過ぎず陳列者が同胞に対する一点の同情なきのみならず実に我沖縄県民の頭上に大なる侮辱を加えたるものなり。人類館最初の計画は支那婦人までも陳列する筈なりしがそは支那公使の異議に依り中止し既に陳列されたる朝鮮婦人に就ては目下韓国志士其撤回を運動しつゝあり。而して其理由とする所は何れも隣国の体面を辱しむると云ふにあり。此挙外国に対して侮辱なれば同胞に対しても矢張侮辱なり。斯る侮辱を忍んでなす冷酷の陳列者に向づて多くの事理を陳する要なし。我輩は只当局者に向ふて速かに之が中止を命ぜんことを勧告す。当局者にして若し此冷酷なる挙を見逃すときは将来県治の上に教育の上に大なる影響の来るのを予言し置く也。之を草し終りたる時在大阪某氏の特報を手にす一読ますゝ此挙の没理を認む。読者乞ふ別項を通読せよ。

※原文は、後日公開します。

明治36年4月11日付琉球新報2面

〇人類舘を中止せしめよ

人類館が同胞に対して侮辱の所為たるは今更多言を要せざるべし。人類学研究云々の美名に眩惑せられて其し漁利の手段となり同胞に対する侮辱となるを悟らず漫に之を許可したるは当局者の責亦辞するを得ざるなり。

陳列されたる二人の本県夫人は正しく辻遊郭の娼妓にして当初本人又は家族への交渉は大阪に行て別に六ヶ敷事もさせず勿論顔晒す様なことなく只品物を売り又は客に茶を出す位の事なり云々と種々甘言を以て誘ひ出したるのみか斯の婦人を指して琉球の貴婦人と云ふに至りては如何に善意を以て解釈するも学術の美名を籍りて以て利を貪らんとするの所為と云ふの外なきなり。我輩は日本帝国に斯る冷酷なる貧欲の国民あるを恥ずるなり。彼等が他府県に於ける異様の風俗を展陳せずして特に台湾の生蕃北海のアイヌ等と共に本県人を撰みたるは是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり。我に対するの侮辱豈これより大なるものあらんや。本県人民如何に無神経なりと雖も如何に意気地なしと雖も此侮辱を甘受するものあらんや。

本県の教化今や駸々として上進し服装の如きも男子は十中の八九は既に之を改め女子と雖も改装するもの年々其数を増加するの勢あり。其他万事日を追ふて他府県と一致せんとするの今日我輩が爰に困難を感ずる所のものは感情の十分融和せざるの一点にあり。他府県人は往々本県人民を指して日本国中特種の民族とするものあれども我輩は其素質に於て毫も区別あるを認めざるなり。只人情風俗の上に少しく異なる所あるは封建割拠の習ひ永く離隔したるの結果に外ならず。然るに王政維新の沢万方に均霑し本県の如きも藩を廃し県を置かれて以来一視同仁の皇沢に浴し爾来風の醇ならざるものは之を醇にし俗の異なるものは之を改め全国帰一の旨に戻らざるに汲々たり。然るに浅学浮薄の徒多く動もすれば本県人を目して劣等種族となし何の遠慮もなくいきなり呼捨扱ひをなすもの多きを見て我輩感慨に堪へざること屢々なり、我は勉めて全国と一致せんとすれば他府県人は往々我を軽視して歯ひぜざるの傾きあり。斯の如きは果して教化の旨意なるか政治の本領なるか。

他府県人と本県人の間に兎角感情の融和せざるは利害に於て関係を異にする所あるにあらず。只我等が我を実価より以下に見下すの結果のみ。而して人類館の如きは劣等の婦人を以て貴婦人を代表せしめ茅葺小屋を以て住家を代表せしめコバ団扇と高麗煙管を以て汁器を代表せしめ全国の観者をして此程度を以て本県を評価せしむ。其影響の及ぶ所知るべきのみ。

聞所に拠れば人類館の賛成員中には有名なる学者もありと云えば其設立者の如きも真逆尽く虎狼に斉しき貧欲の徒ばかりにもあらざるべければ我輩は一面には設立者に向つて本県人民に対し一片の同情を寄せ速かに之を中止するを勧告すると同時に一面には本県の当局者が大阪府に照合して穏当の措置をなさしめんことを切望す。

※原文は、後日公開します。

明治36年5月3日付琉球新報2面

〇人類舘事件の結末(本縣婦人撤去す)

人類館は去月三十日本県婦人を撤去したりと云ふ。これにて本県人民の意志も貫徹し面目も回復したるものなり。今其撤去に至りたる事情を聞くに県民激昂の度がますゝ高まるを見て周旋人も始めて県の体面と云ふことに気づき早速大阪に打電して撤去を要求したり。然るに大阪にて当人□虐待の報に接して撤去を要求し来りたるものと誤解したるものと見へ

君知る通り虐待の事実なし云々

の電報来りたる故更に折かへし

虐待にあらず県民を侮辱すとの事新聞上に現はれたるに依る

と打電したれば三十日に至り左の電報あり

兎に角ひかせた云々

於是大阪にては便船を待って送り還す都合になり居ると云ふ。

当地の周旋人も最初の程は事体斯くまで重大の関係を惹起すとは予想せず又コツミツシヨン杯を受けたるが如き形跡なく只知人の依頼を受け迂闊に周旋したること明白なり。而して事体が斯く容易ならざるを見て狼狽するは既に遅しと雖も併しこれ程まで呼戻しに尽力すれば我県民に向つて陳謝の辞あるものなり。

興行者の如きも其精神に立入るときは誠に面白からざる次第なれども我県民の激昂を見て撤去したれば是又十分陳謝の意を表したるものと見て可なり。此上は将来に於て斯る不心得なきを勧告す。

終わりに臨んで本県民に勧告す。本県民は一般の体面に関して無頓着勝ちなれども県民にして県の体面を重ずるの精神なき時は到底本県が全国に向つて其勢力を発展するの時なかるべし。左れば苟も全般の体面に関する事は縦令少なりと雖も十分注意せざるべからざるなり。

※原文は、後日公開します。

沖縄県政五十年(昭和七年刊行) 第八 沖縄県と沖縄県人

七 政治熱の勃興と活動舞台の展開より抜粋

我が沖縄県民は大正九年十年に至り漸く帝国内地の一般制度、所謂郡県画一の制度に浴するを得たのであるが、廃藩置県よりこゝに至るまでには、四十一二年といふ半世紀に近い長年月を経たのである。吾々は何故にこの長い年月の間、特殊の行程を余儀なくされたか、そこには国際的の事情に累せられた点もあるが、藩政末期の当路者にも不明の罪はあり、政府及び県当局も亦不誠実の責は免かれまい。殊に県民の経済生活と根本的関係を有する所の土地整理を、明治三十六年までも閑却されたので、県の産業経済がこれが為め如何に疎外されたかは多言を要するまでもあるまい。然るに当時にあつては、政府のお役人はこの土地整理を以て、県民に対する多大の恩恵のやうに言つてゐたが、経済生活と大関係ある土地制度を、置県後二十五六年も放擲して顧みなかつた責は、何処までも免れないのである。然もこれを以て恩恵と見るが如きは、実に沙汰の限りで、以て当時の政府の本県に対する総ての態度を窺知するに足るのである。

本県は置県後五十余年の今日に至るも、学会、政治界、実業界等に、まだ出色の人物を出してゐない。県外に於て沖縄名物として話題にのぼるものは、よくはたらく女とハブ位ひのものである。沖縄県人が集団的に県外に知られたのは、明治四十年前後以来で、海外移民、女の反布行商紡績女工等が、これを代表してゐる。何れの地方民も多数集まると知らず識らずその地方色を発揮するから、これ等の集団により本県の風俗習慣を概観するのはよいが、これ等を透して直ちに沖縄県人の価値を評定せらるゝのは誠に遺憾である。併しこれも畢竟我が県人一般の生活状態、風俗習慣、趣味嗜好等が、他の地方と余り離れてゐるのと、今一つは民族的差別感が他の地方人の頭にこびりついてゐる為めであらうから、この辺も吾々が深く考ふべき問題である。

言語の如きは詮じて行けば同一系統で、専門家中には古語の研究上、本県の方言は成るべく保存すべしといふものもゐる。併し普通語を普及するのは、県人の活動上少なからぬ便宜がある。この点からいふとよく唱へらるゝ普通語奨励にも意義はあるが、この奨励が公式的に方言禁止の傾向を帯びることが往々あるのは考へものだ。余り普通語を強いるようになると、私は県人の性格に不純の変化を生ずる恐れがあると思ふ。母の乳房をいじりながら頭に沁みこんだ方言には、いふにいはれぬ微妙の力がある。県人は成るべく普通語を練習するがよからう、これには毫も異存はないが、私は他府県から来る県知事始め部長課長その他の諸君が、我が方言の練習に努められんことを切に希望する。自己の政策政見等を隅々まで徹底的に諒解させるには、普通に使はゝ名詞位ひでも覚へて置いたら、これが契機となつて県人との間に親しみが生ずる親しみあつて始めて政見政策も徹底するのである。県人と親しみ得ないものなら、知事だらうが部長だらうが、如何に手腕があつても本県の地方官たる資格はあるまい。守屋知事などが落第したのも詰りこの一点にある。私は今日でも守屋氏の為めに遺憾に堪えぬ。普通語奨励は置県当初より唱えられたものであるが、実は今日では最早仰々しく奨励する必要は毫も感じない。無教育の老人の外は誰でも必要さへあれば相当に話し得る程度までに普及されてゐる。普通語々々とあまりがみゝいふから却つて遠慮して引込むのだ。私の所見では、普通語の奨励より今日最も必要とするのは「趣味の一致」である。趣味の問題は余り重要視されてゐないやうだが、趣味は国民を情操的に親和融合せしむる力をもつてゐる。この点からいふと昔の政治家が、薩摩および幕府との交際上謡曲茶の湯和歌等を奨励したのは頗る卓見だと思ふ。本県人の趣味も近来可なり変遷して来たが、一般的にいへば今尚ほ全国との隔りが多すぎる嫌ひがある。

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