ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その6

□夏休みのバンド活動 PTAと先生方と生徒が一緒になってのものでしたが、コザ小学校で謝恩会というのがあって、そのとき私たち、そこで演奏をやってしまったわけです。

すると、みんな口を開けて見ていて、もう先生方も生徒もヌーガ・キーガ・ワカラン(何が何やらわからない)という感じでしたが、そのときの反応はというと、音はエレキギターですから、ベース、ドラム、ギターでうるさいんだけど、私たちは清潔にはしていたんで、面白くもないし、そうかといって無視はできないしという感じでした。

その中にゲート通りでバーを経営してる女の先生がいて、私たちに「カッちゃん、あんたなんかが今やった音楽さ、アメリカ人が好きな音楽かも知れないね」といってきたんで、私は「はあー、そっ、そうだよな。だってこれアメリカの曲だぜ、先生、アメリカ人がやっている曲です」といったら、「そうだよね。私のバーでやってみない、まず」って誘われたんです。

私たちは夏休みに来て「ちょっとどこかやるとこないかな」と思っていたんで、それでこの先生のゲート通りのバーで、ジュークボックスからよく流れる曲を選曲して全部演奏したら、もうみんな熱狂してしまったわけです。

私たちは、学生さーね、高校卒業したばかりで、大学一年の夏休みで帰ってきてやっているようなバンドだったんですが、この店の先生が「エー、あんたなんか、これお金どうなるの」って聞くんです。「どうなるって、何がですか」と聞き返すと、「あの、お礼したいんだけど」というわけです。「お礼というと何ですか、ギャラですか、お金ですか、先生それ、いやー」と私が話していると、幸雄が側から「カッちゃん、こういうの高いらしいよ。こういう芸術っていうのは高いよー」というけど、私が「何、練習できる場所があればいいさー」といったら、勉も「アラン(いや)、カッちゃん。こんなのはさ、東京でもギャラもらっているみたいよ」というので、「こういうのギャラもらうわけ、ほんと、高いらしい」と私もその気になって、こういうふうに三人で話したりして、フラー・テー・ジュンニ・フラー※(バカだねほんとにバカだよ)。

※語尾の「ヤサ」を追加しても、しなくても文意は通る。フラー・テー・ジュンニ・フラー〔ヤサ〕

それで、一九六〇年後半から七〇年初期の琉球銀行の初任給が三七ドルぐらいのときに、私もわからないから「先生、今日は二時間ぐらいやったよね、二時間だから二〇〇ドルぐらいでいいんじゃない」といったんですよ。

先生が驚いて「二〇〇ドルねー、いいけどさー、そんなもんなの」というけど、先生もギャラがいくらかわからんさー、それで「そんなもんらしいよ」と私も答えたら、「えー、あんたなんか今高校卒業したばかりで、二時間演奏して二〇〇ドルねー」と先生がいうわけです。また私も「高い、こういうのは高いよ、先生」といって、ほんとに二〇〇ドルもらいました。それから、この先生が「えっ、あんたなんか明日もやらんねー」というわけです。

それで私たちは話し合って「明日もやらんねーっていうけど、チャー・スガ・エー(どうしようか)。明日ちょっとどうかなー、大丈夫かー明日。明日大丈夫です。明日土曜日ですよ、今日金曜日、はいやります」って、こうなったんです。

それで次の日に先生が「二〇〇ドルでいい?もっと取るの?料金」というので、「いやいや、今日二時間でしょう、二〇〇ドルでいいです」といって、二日分の合計が四〇〇ドルさー、銀行の給料の何ヵ月分を受け取って、「アッシェ、ムル・デェージ・ナトー・シガ。アイ、ウリ・ムル三等分、ムル三等分ドー(わあ、おい、たいへんしているな。これ全部三等分にしろよ、みんな三等分だよ)」といって分けたんです。こういう具合に週に二回ぐらいやって、お金を貯めるだけ貯めて楽器を買ったんです。

ウィスパーズの始動と解散 そしたら、夏休みが終わったから勉は大学へ帰ったんです。いろんな楽器の管理なんかもしないといけないし、練習もあるし、それで幸雄と私は沖縄に残っていましたが、「アリガ・ウラン・トー・ナラン・サー。ヤガティ、ナーヒン・モウキラリー・テ-ルムン・ヤー※(勉がいないとバンドができないね。もっと儲けられたのにね)」と二人で話したりしていたんですが、「エー、リカ、ナー・イッカイ東京カイ・ンジ、アリ・ソーティ・クー(なあ、もう一回東京に行ってあいつを連れてこよう)」ということになったんです。

ナーヒン・モウキ・ラリ・ティルムン・ヤーのほうが原音に近いと思われ。

すると、勉もまた案の定「あの時の人前でやった感触が忘れられなくて、大学で勉強しても頭に入らんヤッ・サー」といってついに辞めて帰ってきたんです。それから本格的に演奏活動に入ったわけです。那覇の新報ホールでのコンサートはもちろん琉米親善センターでは窓にぶらさがって見ている人達もいました。

あのとき一九六九(昭和四四)年か七〇年に、ボリビアに死にそうな人がいるから寄付金といってね、ボリビア慈善演奏会とかこういう名前つけてやった記憶があります。会場の外をコザ署の警察がガードしてくれてね、特に金武の街のアメリカ人には人気がありました。

そういうのがきっかけで、「ウィスパーズ」という「コンディショングリーン」の前のバンドができたんですが、五年ぐらい続き解散しました〔1964~1969〕。今でもいいバンドだと誇りに思っています。(続く)

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