恐怖の白い粉(9) 中毒患者 ㊤

80%は米軍人・軍属が占める 麻薬中毒者。そのいまわしい幻覚のいきつくところには「死」と「犯罪」がまちうけている。白い快楽のくすりは人間を廃人に追いこむ。廃人に至る過程には、ヘロインに財産を吸い取られ、麻薬代を工面するために殺人すらいとわない凶悪犯罪の影がつきまとっている。麻薬のとりこになってしまうとおしまいだ。

沖縄では潜在中毒者を含めて五千人ぐらいの麻薬中毒者がいると推定されている。そのうち八〇%近い四千人が米軍人、軍属、退役軍人などで占められ、日本人中毒者は二〇%弱の千人程度いるものとみられている。需要に対し、原産地と直結する米軍基地の豊富な供給源が控えているため麻薬にからむ凶悪犯罪は表だって起こっていない。

「死」「犯罪」に帰結 / 患者、県下で推定五千人

麻薬代ほしさの犯罪が発生する要素は沖縄にはない。ヘロインを手に入れようと思えばあまりにも簡単に入手できる麻薬天国の沖縄の現実だからだ。これまでの日本人中毒者のほとんどが例外なく米兵からタダでもらいうけヘロインを覚え始めている。そして量がふえても入手する苦労はなく、夜の中部には、いくらでもヘロインがあると取りざたされている。

日本人中毒者のヘロイン歴が「麻薬天国」沖縄の現実を物語っている。

本土就職で失敗し転落の道へ A子、昭和二十七年生。父母健在。昭和四十二年三月、中学卒業と同時に学校の紹介で静岡県の大手紡績工場に集団就職した。夜勤のかたわら会社の夜間学校に通学していたが沖縄に対し、いわれのない偏見を持って彼女と接する同僚や学友とおり合わず半年後の九月退職した。

翌四月帰沖、ボウリング場、繊維工場、電力会社などに勤めたがいずれも長続きせず、一ヶ月から三か月でやめた。その後、友人の紹介でコザ市諸見のビアホールを振り出しに夜の仕事に足を踏み入れた。バーからクラブへ、諸見からゲート通り、センター通りへとだんだんと本格的な外人専門店のホステスになっていった。

昭和四十六年ごろから麻薬密売を仕事とする不良外人と知り合うようになった。ヘロインを服用したのが昨年四月ごろ。店で顔見知りの外人客から勧められたのがきっかけ。麻薬の恐ろしさを目撃していたので外人の勧めを一度は断ったが「一回や二回ではなんでもないんだ」といわれ、好奇心からヘロインを鼻に塗って吸った。同年六月から麻薬常用外人と同居するようになり本格的な中毒者に陥っていった。

「他人は別として自分は絶対に麻薬中毒者にはならない。たとえ中毒になっても自分の意志でやめることができるだろう……」と彼女は自信をもってヘロインを注射しはじめた。ところが一回か二回、二回が三回と続けているうちに完全に白い粉のワナにはまってしまった。注射をやめると体がだるくなり、寒気を覚え、鳥膚が立ち、腰が痛むようになってしまった。こうした苦痛から逃れるため、さらにヘロインをうつといった具合に量がふえてきた。もはや自分の意志でやめることはできない状態になっていた。

一度、味を覚えるとトリコに A子の場合、沖縄での日本人中毒者の典型的な経路をたどっている。希望に小さな胸をふくらませて行った本土で多感な少女の心は沖縄に対する同僚の偏見で傷つけられた。幼友だちや多くの親せきに見送られて沖縄を船出しただけに、おいそれと帰沖するのにもためらいを感じた。就職先を退社したあと東京でウェートレスなどしているのを兄に発見され、沖縄に連れ戻された。本土でのざ折感に打ちひしがれていたという。

彼女は昨年九月三日コザ市内で麻薬Gメンに逮捕されたとき「つかまってよかった。自分の意志では麻薬をやめることはできなかった」と麻薬の持つ恐ろしさを話していた。ところが、病院で一ヶ月ほど治療を受け釈放されたあと、ことし七月、今度は県警に逮捕された。現在、懲役一年の実刑判決を受け服役、治療を受けている。厚生省の九州地区麻薬取締官沖縄支所の服部辰夫所長は「一度ヘロインを覚えてしまうと治療後も九九%が再びヘロインにおぼれてしまう」と指摘していた。(昭和48年9月28日付琉球新報夕刊3面)