「功」から「勲」から「功」へ

去年の大晦日に “「勲」から「功」へ” と題した記事をアップし、その中で羽地功さんの経歴について言及しました。その中で「もしかしてご存じの方もいるかもしれませんが、旭琉会には八重山出身の大物がいます。その名は羽地功さんで、ブログ主が確認した限り、昭和47年3月8日付琉球新報夕刊3面記事が彼の全琉デビューになります。」と言及しました。

ところが、前回の記事をさかのぼること6年前の昭和42(1967)年に、羽地功さんと思わしき人物に関するニュースが琉球新報に掲載されてましたので、当運営ブログ読者の “沖縄ヤクザガチ勢” に這いつくばって感謝されることを期待しつつ、関連記事を紹介します。是非ご参照ください。

※引用した記事によると、羽地勲ではなく、羽地功と表記されてるところが極めて興味深いです。ただし、今回はこの点はスルーします。

床下にダイナマイト / 八重山で殺人未遂爆発寸前に発見

【八重山支局】三日午前三時三十分ごろ、石垣市字石垣二二九、会社員、宮里師伴さん(三五)方間借り人、バー経営、羽地功さん(二八)のへやの床下に袋を入れたダイナマイトに導火線をつけ、その先に火をつけた線香がおいてあるのを、羽地さんが発見、八重山署に届け出た。線香は、マッチ棒のはいったマッチ箱にさし込んであり、線香がマッチに燃え移れば、導火線に点火する仕掛けになっていた。発見があと五分も遅れると、ダイナマイトは爆発したわけで、付近の人たちは深夜の騒ぎに冷や汗をかくとともに、恐怖におびえていた。同署では殺人未遂の疑いで捜査しているが、エン恨関係と見られている。(昭和42年4月3日付琉球新報夕刊3面)

この事件に絡んで、同月4月4日付琉球新報夕刊3面に、小さいながらも興味深い内容の記事が掲載されています。

【八重山 暴力団抗争からむ / ダイナマイト事件参考人数人調べる

三日午前三時三十五分ごろ、八重山石垣市のバー経営者宅の軒下にダイナマイトが仕かけられ、爆発寸前に発見された事件を捜査中の八重山署は同事件は石垣市内で対立する暴力団の抗争にからんでいることを確認した。同署では暴力団によるなわ張り料徴収にからみ、反対派を殺そうとしたとみており、数人の参考人を取り調べている。

警本の話によると、石垣市内には暴力団那覇派系の組織と地元暴力グループがあり、一年ほど前から対立しているという。警本では八重山における暴力団の実態について資料をまとめるよう八重山署に指示した。(昭和42年4月4日付琉球新報夕刊3面)

この2つの記事から3つの事柄が推測できます。1つめは反社組織が2つも結成されるレベルで石垣島の経済が活性化していたこと、2つめは島内で激しい勢力争いがあったこと、そして3つめに

当時から羽地功さんは爆殺を企てられるレベルでのヤバい人だった

点です。

ご存じの通り、昭和45年(1970)年12月の「沖縄連合旭琉会」が結成された時に、八重山グループも参加しています。昭和47年の新聞史料において羽地さんは「八重山支部長」と明記されてますので、つまり石垣島内の反社勢力の一本化に彼が果たした役割は極めて大きかったかと思われます。

そこで不謹慎な「イフ」ですが、「発見があと5分遅れて」羽地さんが不幸にも爆殺されてしまった場合、旭琉会の歴史も今と違ったものになっていたのではと余計なことを想定しつつ、今回の記事を終えます。

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