『県差別のない社会づくり条例』の考察

先月30日の琉球新報DIGITAL版によると、「沖縄県議会(赤嶺昇議長)の2月定例会は20日、最終本会議を開き、公共の場やインターネット上での差別的言動(ヘイトスピーチ)の解消を図る『県差別のない社会づくり条例』を賛成多数(賛成29、反対19)で可決した。」とあり、”反ヘイトスピーチ” に対して初の県条例が制定されたと報道されていました。

同記事内の「条例のポイント」を読む限り、この条例は公序良俗に反する言動に対して法規制を行う趣旨のため、沖縄県民の大多数にとっては無縁の存在になるかと思われます。ただし、ブログ主は、「差別のない社会へ」のスローガン(というか美辞麗句)に違和感を覚え続けてきましたので、今回は(いい機会なので)「差別」について調子に乗って言及します。

参考までにインターネットで「差別」を検索すると、「特定の集団に所属する個人や、特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由にして不当に取り扱う行為である。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」としている」(Wikipedia)と記載されています。そして厄介なのが、除外や拒否行為が社会慣習として存在する場合、個人レベルでは抵抗できない点です。

大雑把にまとめると、差別言動は人間個々から発する一種の「感情」であり、その感情が「排除行為」に発展し、しかも社会慣行化すると、自動的に差別する側とされる側を生み出してしまうという、マルクスの人間疎外論のできそこないのような状態になってしまうわけです。

では、なぜ人間は「差別感情」を抱いてしまうのでしょうか。その理由は「ヒトは個体差を持って生まれる」との自然の摂理に由来します。つまり、個体差による生物学的優劣が人間関係における「優劣」に変換し、「優劣関係」が「差別感情」を生み出し、その結果「差別的言動」に発展してしまうわけです。

ただし、ヒトが差別感情をとことん満たす言動に終始すると、(厳しい自然界を生き抜くために築き上げた)社会秩序に重大な脅威が生ずる恐れがあります。そのため人間は長い時間をかけて、試行錯誤を繰り返しながら、「ここまでならOK、これ以上はダメ」と折り合いをつけながら、今日に至ったのです。

もしも、すべての差別をなくしたいなら、究極には「ヒトの個体差」をなくすしかありませんが、如何に医学が発達しても生物学的にヒトを均等化することは不可能ですし、なによりも「個性」を否定することになります。たしかに個性が差別を生み出す源になっていますが、ただし個性を否定すると、差別がある社会以上に惨い状態になる可能性も否定できません。

ハッキリ言って、ヒトに個体差がある以上、「差別のない社会」の実現は不可能と言わざるを得ません。ただしその限界を承知の上で、現代社会をスムーズに運営するために、過去の差別慣行を規制、および廃止する活動には大きな意義があります。そして今回の県条例も「すべての差別をなくす」のではなく、「これ以上はダメ」の範囲を少し広げる趣旨で制定されているのです。

最後に、今回の県条例の制定に関して一つだけ気になる点があります。それはこの県条例を足掛かりにして、「沖縄差別」を(法的)罰則をもって禁止しようとの動きが加速するのではとの懸念です。つまり「沖縄は差別され続けている」の命題の証明のために県条例を利用する “(声だけやたらデカい)残念な輩” が出てくると予想されますが、その点だけ気を付ければいいかなと思いつつ、今回の記事を終えます。

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