りうきうの闇深な話 – 真の恐怖

(続き)少し前に “りうきうの闇深な話 – プロローグ” と題して、明治5年から6年(1872~1873)ごろの琉球藩の様子について言及しました。その中で、琉球藩は明治政府と交渉して減税措置が施されたにも関わらず、藩内の税率が据え置かれた件について触れましたが、果たして差額は如何にして使われたか、それは次回のお愉しみでいったん記事を〆ました。

比嘉春潮著『沖縄の歴史』から察するに、明治5年に琉球藩に封じられたのに伴い薩摩関連の役職がすべて廃止となったため、それに従事する那覇士族たちの救済に差額金が使われたのではと思われます。だがしかし、どの史料をチェックしても課税者である農民救済に資金が投入された形跡は見当たりません。

それどころか、別件で巨額の資金が投入された形跡があるのです。実はこの案件、ブログ主は正月に首里城を訪れた時に偶然気が付いたのですが、その後いろいろ史料をチェックした上で、減税分の差額分がここに投じられたのだと確信しました。

それは1870年11月に着工された “中城御殿” です。試しにに沖縄大百科事典の全文を書き写しました。ご参照ください。

中城御殿 なかぐすくウドゥン

世子殿の俗称。尚豊王代(1621~1640)の創建。創建当時の場所は現首里高校敷地内にあたる。殿の本門は綾門大道(アヤジョーウフミチ)に面し、東に道を隔てて大美御殿で隣接。1870年(尚泰23,明治3)龍潭に面する地(現県立博物館所在地)に新しく造営されることになり、74年に竣工。75年、世子の移住がおこなわれた。敷地は3000坪(約9900㎡)余、建物は別棟(米蔵、炭蔵など)を除いて800坪(約2640㎡)余である。殿の主要建物二十数棟は連結して群立し、男性だけの表御殿(前)と女性だけの奥御前(御内原)に分かれ、その接点の〈鈴引〉で取次ぎがなされた。

表御殿は大広間のある殿を中心に主殿造りに配され、内部は書院造り。それに連結して政庁の役目をする前之御座と取納座殿、御蔵などがあった。三司官の一人が中城御殿紫官大親を兼ね、その下に大親以下46人が任ぜられ、さらに下代、門番などがいた。奥御殿は、最大の建物である寝廟殿を中心に、寝殿造りを思わせるコの字型に主要殿を配し、回りにいくつかの建物を連結。殿の内部構造は平安・鎌倉期の御所造りに似ている。女官から下女にいたるまで数十人の婦女子が仕えた。明治以降大幅な人員削減がおこなわれ、1941年(昭和16)現在で、男女あわせて80人が仕えていた。廃藩置県による首里城明け渡しのとき(1879)、国王はこの世子殿に移り、その後大美御殿・聞得大君御殿からも移り住んでいる。

1945年4月、沖縄戦で多くの宝物とともに炎上。戦後その跡地は、一時引揚者のバラックが建ち、その後首里市役所、首里バス会社となるが、のちに琉球政府が敷地を買い上げて博物館を移し、現在にいたっている。〈真栄平房敬〉

ちなみに中城御殿の工事はけっこうな時間がかかり、明治3年(1870)11月着工、明治7年(1874)竣工、そして翌年に世子(尚典)が移住したと伝えられてます。当時のりうきうは薩摩による文替わり(ハイパーインフレ政策)と1866年の尚泰王の冊封で経済が壊滅した状態にありました。その影響か、現存する明治期の首里城ですら、当時の写真を見ると、ろくにメンテナンスが行われていなかった様子が読み取れます。

こんな状況下で巨額の資金を投入して世子の新居を建築したわけです。

はっきり言って鬼畜です。

なので、明治7年に竣工した中城御殿は納税者である農民の血と汗を絞りとった “搾取の殿堂” と言っても過言ではないかと思われますが、実は本当に怖い話はここからなのです。

この中城御殿、再建されます。

詳しくは首里城内有料区域(正殿跡)に掲示されていましたが、何度読み返しても極めて胸糞悪くなります(終わり)

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