アメリカ世を象徴する建築物

先日、松岡政保(まつおか・せいほ)氏の回顧録『波乱と激動の回想』を流し読みした際に、実に興味深い箇所を発見しました。それは同著343㌻から「歴代高等弁務官の思い出」について記している中で、琉球政府行政府ビルから米民政府が移転したエピソードを追記していることです。

琉球政府行政府ビルは昭和28年4月に完成した4階建のビルで、1,2階は琉球政府が3,4階は米民政府が使用、しかも屋上には星条旗がたなびく実にいわくつきの建物、つまり米国占領の象徴だったのです。当時琉球政府に努めるお役人さんの複雑な気持ちは容易に察することができますが、実際に官吏だけでなく沖縄住民に与えた心理的影響も無視できないものありました。アメリカ世は一面では琉球・沖縄の歴史上で最も経済が発展し、もう一面では敗戦国民としての苦渋をいやというほど味わった時代でもあります。琉球政府行政府ビルから米民政府を移転させた話をなぜ松岡さんがわざわざ回顧録に記載したのか、当時の住民心理を伺うことができる貴重なエピソードです。読者の皆さんぜひご参照ください。


まずは『波乱と激動の回想』の347~350㌻からの抜粋です。

3 米民政府の移転

また、アンガー高等弁務官は、わたしたちの強い要望に応えて米民政府を行政府ビルから浦添村勢理客の米軍施設へ移転させた。移転の正式発表前にわたしのところへみえて、「われわれはミスター・松岡に追い出された」、「いや、あなた方が自分で出ていったのだ」と冗談をいい合ったことも、忘れられない。行政府庁舎第一ビルは、復帰のさいの米国資産処理問題とも関連しているようだから、わたしが知っていることについて述べておきたいと思う。

1967年3月、わたしが米国を訪問した際、国防、国務両長官への要請事項の1つに米民政府の移転問題をふくめてあった。周知のごとく、67年12月まで、琉球政府と米民政府は行政府第一庁舎の1つ屋根の下で、4階を上下の半分づつ分けあっていた。第一庁舎は、1953年に米国資金によって(旧)沖縄県庁跡に建設されたものである。米民政府に、このビルから移転してもらって、琉球政府が自主的にビルを管理したいと、わたしは要請し、その理由は次の通り説明した。

「長い間の異民族統治に、沖縄住民は大きな不満を抱いている。米民政府の移転は、住民感情をやわらげる一方法にもなろう。第一に、米国は沖縄の施政権を保持してはいるが、沖縄住民は米国市民ではない。いうまでもなく、国旗はその国の象徴であり。米国を象徴する星条旗の下で、沖縄代表の主席が執務するのは、住民心理にあたえる影響からみても好ましいことではない。第三に、ビル玄関の壁面に”このビルは米政府によって琉球住民へ献呈(デディケイト)された”と日米両語で書かれている。デディケイトが献呈と訳されて、沖縄住民は同ビルが自分たちの財産になったと思い込み、一旦、他人のものになった財産に米側が執着するのは不合理だ、と主張して、琉米間の摩擦をおこしている。立法院で再三、議論もなされた。このさい米民政府が移転すれば、事態は好転しよう。それが不可能であれば、琉球政府が移転する。そのためのビルも用意している」と、わたしは強腰に出た。

4 デディケイトは献呈か

デディケイトが献呈であるか、どうかは、琉球政府の比嘉秀平初代主席時代から、しばしば問題になった。そのころ、米民政府のバーツ民間情報教育局長が「同問題について沖縄側の意向を聞きたい」というので、わたしの家に人民党を除く与野党の幹部、法曹関係者を招いたことがある。安里積千代、平良幸市、知念朝功、仲松恵爽らが出席し、知念氏が大英辞典と法律辞典を熱心に照合していたのをおぼえている。この日は「デディケイトとは献呈ではなく、沖縄住民のためにつくったという意味である」という結論になった。

それでも漠然としすぎるとの意見があったので、わたしは、たとえ話しをしてみた。「それは、つまり東京上野公園にある西郷さんの銅像みたいなものではないか。東京都民のために建てられてはいるが、東京都の財産ではないと聞いている」。しかし、それならそうで、万一、ビルの火災とか、地震などで人命が損傷した場合、どちらが責任を負うのかといった疑問点もあって、すっかり考えこんでしまった。そのとき平良幸市氏が発言した。「デディケイトの例にみられるように、アメリカさんは恩恵を与えた以上に、期待する。シャツのカラーも出すぎては見苦しい。」適評であると思った。

米国から帰ると、わたしはアンガー高等弁務官に会って「ワシントンで移転問題を話してきた。米民政府が出なければ、琉球政府が出ていく」と再び申し入れた。そのころ、立法院の大城真順議員らも、同問題を米民政府へ折衝していたようである。1967年12月、アンガー高等弁務官は「年明け早々に米民政府は浦添村勢理客の米軍施設へ移転する」と発表した。この施設は、米第二補給隊司令部に予定していたものを、急いで米軍のマークを消して転用したということであった。これによって、十数年も琉球政府の頭上にひるがえったいた星条旗がおろされ、那覇市は名実ともに沖縄住民の政治センターになった(中略)


昭和42年(1967年)12月20日付、琉球新報朝刊1面のコラム〈金口木舌〉も併せてご参照ください。

金口木舌

米民政府が現在のビルから移転する。一カ月後には引っ越し作業も終わるという。移りゆく先は浦添村。安謝橋を渡ったツイ先、一号線道路沿い、海よりの新しいビルだ。発表にいささかだし抜けの感がある ‣米民政府がいまの行政ビルに、ドカッと腰をおろして15年近くにもなろうか。屋上にはためく星条旗は、米国の沖縄占領の象徴として、住民に心理的威圧を加え、日本本土からの来訪者の目には、痛かったようだ。その旗がまもなく去る。しかしわたしたちの心に影を落とした星条旗は、簡単には消えまい ‣いわくつきのビルではあった。玄関正面にはめ込まれた献辞。「このビルを琉球住民に献呈する」をめぐって、米民政府側と民側の間に争いもあった。「献呈した以上、所有権は琉球政府にある」というのが民側の主張だが、米側としては「実際に引き渡されるまでは、米民政府が所有する」とのいいぶんだったと記憶する1,2階を琉球政府が使用し、3,4階を米民政府が占有する。という共用の形も、なにかしら統治者と被統治者の関係を思わせ複雑気持ちを抱かせたものだ。いつのまにか米民政府は、2階の半分まで進出してきて、通路にも、画然と双方を区切る金網のトビラがとりつけられ、一種の差別を思わせた米政府も琉球政府も、既存の建て物が手ぜまになって、官僚機構の膨張が、気にかかる。それはさておき、これまでの、そうあまりなじまぬ同居人が居を移し、代わって身内が住むとなると、なんだか気も変わってこよう。米国統治の影が、那覇市内の中心地から消えることに、意味があるか政治センターに、自治の色が濃くなるからといって、それは視覚の問題であって、ホンモノの自治は、そうたやすくはよみがえってこない。政治センターは、わたしたちの手に戻せるが、いぜんアメリカの沖縄統治における自治の虚構性に変わりはなく、そして、あの行政ビルの所有権は、どうなるか。

 

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