コザ暴動の教訓 – 暴力追放の例外

今回もまじめにコザ暴動の歴史的教訓について言及します。参考までに事件当時(昭和45年)のコザ暴動に対する琉球住民の評価は “事件の責任は米軍側にあり、起こるべくして起こった” で一致しています。

誤解を恐れずにハッキリ言うと、今も昔も社会の建前は暴力追放ですが、未曾有の大騒動に発展してしまったコザ事件に関しては例外扱いで、与野党問わず「米軍側に責任がある」の認識なのです(”にも” という表現を使っていないことに注目)。試しに大田昌知自民党幹事長(当時)の談話を引用すると

72年施政権返還を前にして、これまでにもなかったような事件が発生したことは遺憾である。こんごこのような事件が再びおこらないようにすべきである。れき殺事件、毒ガス問題が相次いでおこっているおりの事件で、これらの問題を集約している。米軍も反省してもらいたい。自民党は(12月)21日に議員総会を開き、対処策を講じていきたい。21日に軍関係特別委を開きたい。(昭和45年12月21日付琉球新報2面)

とあり、やんわりと米軍を批判していることが伺えます。もうひとつ屋良朝苗著『激動の8年』の中でコザ暴動に言及した箇所を引用すると、

(中略)東京の日程は一切とりやめ20日午後帰任した。羽田から朝の沖縄便はなかったので、大阪まで国内便で飛び国際線に乗りついだ。騒動現場を見て回って想像以上の破壊行動の跡に驚いた。個人乗用車87台、軍労務雇用事務所と米人学校の一部が焼かれ、事件に関係のない65人がケガをするという被害そのものには同情にたえず遺憾であった。しかし、あの時刻に街の真ん中で、それも外人車の交通事故が直接の騒動の原因になったというし、組織的計画的な暴動とは思えなかった。群衆は盛んに「糸満の二の舞はごめんだ」と絶叫していたともいう。やはり無罪判決が直接、間接に影響して基地の町に住む人たちの心の中に日ごろからくすぶる米軍の不信感が一挙に爆発したのであろうというのが私の感想だった。「常識的に考えて米軍のやり方には県民が納得できぬことが多すぎる。それが不測の事態の刺激要因になることを米軍にも反省してもらわなければならない」と思った。(屋良朝苗著『激動の8年』/52  – コザ騒動事件不測の事件に動揺 / 米軍への不信感が爆発より)

とあり、大田幹事長と同じ内容となっています。つまり「事件そのものは遺憾であるが、その原因は米軍側にある」との認識で一致しているのです。

米民政府側の認識は琉球住民とは逆で、試しにランパート高等弁務官の声明を参照すると、きわめて厳しい口調ではありますが

(中略)このなげかわしい事故は、1人の海軍軍曹の判決が無罪となったことに部分的に起因すると、私はきいているが、判決の結果を妥当とせず、これを批判することはあり得る。しかし、平和な市民の生活をおびやかし、財産を破壊するように、批判を暴動などの手段にうったえる口実にはならないのである。このようなことはジャングルの世界である。(昭和45年12月21日付琉球新報1面)

とあるように、

気持ちは分かるがやっていいことと悪いことがある

になります。そしてブログ主は米民政府側の認識を全面的に支持せざるを得ません。その理由はコザ暴動後に起こった出来事にあり、その点については次回言及します(続く)。

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