佐敷のヒャッハー考

今回は前回の記事”佐敷のタックルサー考”の続きで、巴志さん(と愉快な群臣たち)が大里を領有後に今度は首里に向けて進撃する様を『球陽』の記述を主として考察します。

ちなみに今回の巴志さんに関する考察記事はあえて利用する史料を限定し、一定の制約をかけて解釈しています。それ故に巷のイメージと記述内容がだいぶ異なりますが、「ああ、こういう解釈もあるんだな」程度で読み進めることをお勧めします。

1392年、島添大里按司を倒して大里地区を制圧した巴志さんですが、その後群臣が首里進撃を提案します。巴志の父思紹が中山王に即位したのが1406年ですから、15世紀入ってしばらくしての出来事かと思われます。進言内容は以下ご参照ください。

時に乃ち中山王武寧、先君の典刑を壊覆し、臣民遁隠す。諸按司相請ひて曰く、巴志、大里を得て地、首里と甚だ近し。今、王徳を失ひ、禍遠からずと。各散隠して朝せず。

この記述、前回の記事と同じく朱子学的要素を頭から取り除いて意訳すると、「中山武寧のところは諸事情で警備がゆるゆるだからたっくるすなら今のうちだ」と読み取れます。それに対する巴志さんの回答は、

巴志、諸臣に請ひて曰く、琉球は開闢より以来一王世を治む。山南・山北は皆仮王なり。今、中山王徳を失ひ政を廃す。何れの時に二山を平げ、一統の治を致すを得んやと。

つまり、「それなら殺っちゃっていいかな?」と群臣に質問しているのです。それに対する群臣たちの回答は以下ご参照。

諸臣皆曰く、武寧王徳を失ひ国勢日に衰へ、山南・山北強暴益々甚だし。是れに由りて之れを観るに、武寧王は民を救ふの主にあらず、乃ち国を傷ふの蛆虫なり。請ふ、先づ中山を伐ちて以て基業を建て、然る後二山を平げて以て社稷を安んぜよ。是れ万民の幸、天理の願なりと。

見事なまでに空気を呼んだ返答で、その後巴志さんは首里進撃して見事武寧さんを討ちます。じつは大里制圧と首里進撃には共通点があって、

相手の具体的な悪事が言及されていない

ことです。島添大里按司に関しては「いわんや吾と巴志とは睦じからざるをや」との記述があるため、両者の間に何らかの遺恨があったと読み取れますが、では中山武寧さんは「乃ち国を傷(そこな)ふの蛆虫なり」と罵倒されるほどの悪逆非道な権力者だったのでしょうか。

ちなみに後世に目をやると、前代未聞の大飢饉の10年後に首里城再建と冊封を行なったり、記録的ハイパーインフレの状況下で冊封を強行して国家経済を壊滅させた「乃ち国を傷ふの蛆虫」がいましたが、はたして武寧さんがホントに虎もドン引きの苛政を行なったのか。このあたりは今後詳しく調べる必要がありますね。

少し話がそれましたが、次に大里制圧と首里進撃の違いに注目すると、中山武寧さんは当時琉球に3人しかいなかった中華皇帝お墨付きの権力者だったのです。図解すると、

の関係です。つまり巴志さんの武寧討伐は昭和の出来事でたとえると、

山口組の三次団体を壊滅させた佐敷のDQN軍団

そのもので、冊封体制下でしかも久米の閩人(びんじん)と最も関係が深い察度(さっと)系の権力者を滅ぼすなんて狂気の沙汰としか思えないのです。つまり大明皇帝の面子を潰したわけですから、本来であれば久米と山北・山南が連合して佐敷のならず者軍団を討伐すべき案件なのです。Vシネマのヤクザ映画であれば山口組本部激怒でDQN軍団との抗争開始のストーリーが展開されます。

だがしかし、史実は逆で久米の閩人たちは巴志と手を組んで最終的には琉球を統一します。なぜそんな摩訶不思議なことが起ったのか、この件は次回考察するとして、哀れなのは蛆虫呼ばわりされた武寧さんです。その末路は『球陽』に記載されていましたので下記ご参照ください。

二年、明の成祖、祭を武寧に賜ひ、並びに思紹に詔して王爵を嗣がしむ。

尚思紹、使を遣わし武寧の薨を以て訃告す。成祖、礼部に命じて祭賻を賜ひ、思紹に詔して王爵を嗣がしめ、幷びに皮弁冠服を給す。

つまり

殺されちゃった

というわけです(続く)。

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