沖縄県民が忘れてはいけない人々 – 医生教習所の卒業生たち

(続き)前回の記事において、医生教習所の碑が波の上宮にあった件について言及しましたが、その前に明治19(1886)年に起きた天然痘の大流行について興味深い記事を見つけましたので紹介します。

令和2(2020)年4月16日付沖縄タイムス文化面に掲載された前田勇樹さんの論説『「琉球処分」と感染症(下)』の中で、明治19(1886)年に天然痘が大流行し、患者数4712人、死亡者1160人の大惨事になったとの記載があります。その要因のひとつとして当局に対する民衆の不信感が感染拡大に繋がったと旨の記述がありますが、これは確かにうなずける話で、実は県当局が廃藩置県後に地方医療の組織を改変していたのです。『沖縄県政五十年』によると、

こんな强い刺戟を受けた縣當局は、西洋醫術の宣傳と衛生思想の普及には特別に力を入れたやうである。十四年には各所の診察所を廢して、首里、兼城、美里、羽地等に醫院の分局を設け同時に久米島、宮古、八重山の診療所も分局と改稱した。十五年には國頭分局を羽地より名護に移し、別に國頭間切奧間に出張所を設立した。十六年には首里以外の分局を廢して、名護、久米島、宮古、八重山等に更に診察所を置いた。かう屢次場所や名稱等を變更したのも、どうかして一般縣民を新醫術に接近させたいといふ主意に出たのであらう(149㌻より抜粋)

とあります。民間において医療と呪術が分離していない(というか密接不可分)の有様で従来の組織を改廃し、直後に感染症が流行したらどうなるか。いまさら説明するのも何ですが、組織変更の主(ここでは当局)にヘイトが集まるのは当然です。そしてこのような民間の雰囲気のなかで明治18(1885)年に沖縄県病院内に医学講習所が設立されたのです。

医学講習所は明治22(1889)年に医生教習所と改称され、明治45(1912)年まで存続しますが、その間170名余りの卒業生を世に送り出します。そして医療や衛生面に限らず卒業生たちの沖縄社会への貢献度はきわめて高く、彼等の存在なくして現代のハイレベルな医療および衛生環境はなかったといっても過言ではありません。

波の上宮に設立されている石碑の写しは下記参照ください。

医生教習所記念碑(旧漢字訂正文)

明治十八年二月沖縄県医院に医学講習所を新設す。けだし〔廃藩〕置県後日なお浅く県民の衛生思想いまだ幼稚の域を脱せず、寒村僻地(かんそんへきち)に至っては殆んど医薬の仁澤(じんたく)に浴せざるを以て汎(ひろ)く子弟を教養し、賑恤救護(しんじゅつきゅうご)するの必要を認めたればなり。是(この)年六月校舎を下天妃に移し同二十二年医生教習所と改称し同三十四年地を松下町に卜(ぼく)して病院及〔び〕教習所を新築し大にその規模を拡張せしが同四十五年医術開業試験法改正の結果閉鎖せらるるに至れり。創立より是に至る歳を閲(けみ)すること二十八年卒業回数を重ぬること二十三次在籍生徒五百名開業免許状を受くる者実に約二百名に上れり。

惟ふに本教習所の開設は恰も県治草創の時に際し人心の傾向官場の吏僚を貴(とうと)んで民間の業務を喜ばざる風あり、従って世人の本教習所を視ること甚だ重からず、是〔を〕以て諸生の来り学ぶ者自ら褒貶(ほうへん)の外に立ち螢雪(けいせつ)三十年孜孜(しし)として養生の学術を研鑽し営営(えいえい)として方薬の天職に没頭せり。それ大政維新の皇化遠く南陲(なんすい)に迨(およ)んで悉(ことごと)く旧来の陋習を破り開明今日の盛を效(こう)すもの本教習所の微力また与(あずか)らずとせんや。況や本所出身中本職の余力を以て或は政治界に或は経済界に県治の発展県民の向上に貢献せし者多士(たし)洵(まこと)に儕儕(せいせい)たるや。

顧れば滄桑(そうそう)幾変遷同窓の士にして既に鬼籍に入りし者約五十名母黌(=母校)の遺址(いし)また草莽の裡に埋没せんとせり。乃(すなわ)ち同人胥謀(あいはか)りこれを金石に録して以て後毘(こうび)に胎さんとす。波上(ナンミン)の晴嵐永くその芳を伝へ笋崖(しゅんがい)の潮音長(なが)へにその功を頌(たた)へよ

昭和三年季秋 登極の大礼挙行の日 文学士東恩納寛惇撰 医師山城正心書

上記碑文のなかに登極の大礼挙行の日との記載がありますので、医生教習所の碑が建立されたのは昭和3(1928)年11月になります。ちなみに現在の碑は平成11年7月、沖縄県医師会によって再建されたものです。

石碑の裏に記念碑建設者氏名の記載もありましたので、ご参照ください。

【記念碑建設者氏名】

伊禮正次 渡口精鴻 富永實忠 金城良榮 平良眞順 仲吉朝瑞 親泊康順 山城興忠 又吉昌德 福永兼保 宜保晴成 島袋常精 比嘉良則 仲里朝貞

稻福金成 富川盛淳 友寄英傑 我如古樂一郎 平良正 仲地紀晃 大城盛昌 久田友雄 牧志正敏 照屋孚詮 喜瀬眞正 新里仁榮 砂川清 仲嵩嘉尚

鉢嶺清懷 富原守昭 知念誠太郎 吉田安盛 高良愼正 村田精成 大嶺信 山城秀正 牧志宗得 照屋孚彰 宮城松青 島袋全信 山城健男 仲本將佐

濱松哲雄 友寄隆晃 金城清松 與儀清隆 玉城三郎 上間徳二 桑江朝紀 山城正心 古堅宗煥 新城吉太 宮城普喜 比嘉賀善 平田嗣順 當間重祿

饒平名紀順 渡嘉敷唯勲 嘉手納清行 名嘉原知晨 名嘉眞武光 大城幸之一 上與那原朝珍 大見謝恒吉 眞境名安明 照屋清五郎 新城半次郎 銘苅正太郎 比屋根良任 上江洲智綸 大濱孫昌 南風原朝保 山入端松正 宮城源信

ブログ主は、現代社会の礎を築いた先人たちの業績が一般社会に周知されていないことについて常々残念に思っています。以前に当ブログでも紹介した安村つる子女史(1881~1943)がその最たるものですが、医生教習所の卒業生たちの貢献度も安村女史に劣らず高いものがあります。コロナ禍が終息した際には、是非波の上宮まで足を運んで、医生教習所記念碑の前で先人たちの業績に想いをはせてほしいとブログ主は切望して今回の記事を終えます。

・波の上宮内に設立されている醫生教習所記念碑です

・明治18年第一回入学講習生の写真です。

・記念碑の正面拡大写真です。後学のため、原文を書き写しましたのでご参照ください。

【醫生教習〔所〕所記念碑】

明治十八年二月沖繩縣醫院ニ醫學講習所ヲ新設ス盖置縣後日尚淺ク縣民ノ衛生思想未タ幼穉ノ域ヲ脱セス寒村僻地ニ至ツテハ殆ト醫藥ノ仁澤ニ浴セサルヲ以テ汎ク子弟ヲ教養シ之ヲ賑恤救護スルノ必要ヲ認メタレハナリ 是年六月校舎を下天妃ニ移シ同二十二年醫生教習〔所〕ト改稱シ同三十四年地ヲ松下町ニ卜シテ病院及教習所ヲ新築シ大ニ其規模ヲ擴張セシカ同四十五年醫術開業試驗法改正ノ結果閉鎖セラルルニ至レリ 創立ヨリ是ニ至ル歳ヲ閲スルコト二十八年卒業回数ヲ重ヌルコト二十三次在籍生徒約五百名開業免許狀ヲ受クル者實ニ約二百名ニ上レリ

惟フニ本教習所ノ開設ハ恰モ縣治草創ノ時ニ際シ人心ノ傾向官場ノ吏僚ヲ貴ンテ民間ノ業務ヲ喜ハサル風アリ從ツテ世人ノ本教習所ヲ視ルコト甚タ重カラス是以諸生ノ来リ學フ者自ら褒貶ノ外ニ立チ螢雪三十年孜孜トシテ養生ノ學術ヲ研鑽シ營營トシテ方藥ノ天職ニ沒頭セリ 夫レ大政維新ノ皇化遠ク南〔陲〕ニンテ悉ク舊來ノ陋習ヲ破リ開明今日ノ盛ヲ效スモノ本教習所ノ微力亦與ラストセンヤ 況ヤ本所出身中本職ノ餘力ヲ以テ或ハ政治界ニ或ハ經濟界ニ縣治ノ發展縣民ノ向上に貢セシ者多士洵ニ儕儕タルヲヤ

顧レハ滄桑幾變遷同窓ノ士ニシテ既ニ鬼籍ニ入リシ者約五十名母黌ノ遺址亦草莽ノ裡ニ埋沒セントセリ 乃チ同人胥謀リ之ヲ金石ニ錄シテ以テ後毘ニ胎サントス 波上ノ清嵐永ク其芳ヲ傳ヘ笋崖ノ潮音長ヘニ其功ヲ頌ヘヨ

昭和三年季秋 登極ノ大禮擧行ノ日 文學士東恩納寛惇撰 醫師山城正心書

 

 

 

 

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