國體政體永久不相替是迄通被仰付候段一昨年外務卿ヨリ御達有之

明治8年(1875年)における琉球藩と明治政府との交渉に関して調べているうちに、外務卿副島種臣より琉球藩国体永久不相替の言質とその覚書があり、それを理由に琉球藩が藩政改革を拒んだとの記述を見つけました。実際にそのような覚書があるのかチェックしたところ、意外にも簡単に見つけることができましたので今回当ブログにて紹介します。明治6年(1873年)9月20日付の琉球藩への達書をご参照ください。

〇明治六年九月二十日琉球藩へ達書

一 藩王閣下昨年特命ヲ以テ册封ヲ賜リ永久之藩屏ト被仰出候ニ付テハ朝廷ヘ抗衡或ハ殘暴之所業アリテ庶民離散スル等之事アルニ非サレハ廢藩之御處置ハ固ヨリ有之間敷候(下略)

右之件外務卿副島種臣ヨリ致承知候爲御心得此段申進候也

引用:『琉球所属問題関係資料(全八巻)第六巻琉球処分(上・中)』246㌻より抜粋

【読み下し文】藩王閣下昨年特命を以て冊封を賜り、永久の藩屏と仰せ出だされそうろうに付ては、朝廷へ抗衡(こうこう=張り合うこと)或いは残暴(ざんぼう=残酷で荒々しいこと)の所業ありて庶民離散する等の事あるにあらざれば、廃藩の御処置は固よりこれあるまじく候(下略)。右の件〔は〕外務卿副島種臣より承知いたしそうろうため、御心得此の段申進(しんしん=申し送る)そうろうなり。

読み下し文の大意は、「明治5年(1872年)琉球藩に封じられ永久の藩屏と命じられた以上、朝廷へ抵抗や暴政により庶民離散するなどの事がなければ、言うまでもなく廃藩の処置はあってはならない」になりましょうか。条件付きではありますが、現在の体制維持を言明しているようにも見受けられます。

永久之藩屏の解釈

上記の達書において、「永久之藩屏ト被仰出候ニ付テハ(永久の藩屏と仰せ出だされそうろうに付ては)」の部分の解釈ですが、藩屏(はんぺい)とは「皇室の守護としての諸侯・諸藩」を意味しますので、永久の藩屏とは前後の文脈から「藩に封ぜられた琉球は永久に皇室の守護の責を負う」と解釈することができます。その解釈なら皇室の守護のために藩政を改革する場合もあると見做すことができます。

だがしかし琉球藩では「琉球藩国体永久不相替(琉球藩の国体を永久に変更しない)」と解したため、明治8年(1975年)に来琉した松田道之との間でこの条文に対する解釈の齟齬が生じてしまいます。松田は外務省の通達はあくまで藩を廃することはしないと言明しただけで「この藩制あればこの職制なかるべからず(この藩であれば〔必ずしも〕この職制ということではない)」ことを力説しますが、琉球藩側がまったく聞き入れてくれません。

ちなみに琉球藩の言い分は「現在の国体は民情に合致しているので、藩政改革を行うと治政に支障がでる恐れがある。琉球藩は内地(他府県)とは異なるので藩に封じられた経緯があり、国体永久不相変是迄通(国体を永久に変更せずこれまでどおり)の件外務卿より通達もあった」とのことですが、どう考えても上記通達の解釈としては無理があります。

外務卿通達が出された経緯

この通達が出された経緯についてざっと説明すると、明治6年(1873年)に別件で上京嘆願中の浦添親方等が、台湾事件(宮古島島民遭難事件)に関する日清交渉において琉球の帰属が議題に上っていると聞きつけたことがきっかけとなります。琉球藩使は日清両属の止むを得ない状況を説明し現状維持を嘆願するために副島種臣外務卿を訪ねますが、その際のやり取りに関しては下記引用をご参照ください。

八月十一日、與那原親方外務卿副島種臣を私宅に訪ひ、両屬の止むなき由來を陳述したり。外務卿は這囘清國との談判の大要を陳べ、我が政府は、琉球の我が管轄内なるを認めて、其の民の遭難したる事件に就きて談する所ありしに、清國政府は、琉球所轄の事に就きては、毫も問ふ所なく、又怪しむ所なかりし由を傳へ、暗に政府の大方針を示し、又與那原等が、琉球は小國にて國體制度の上に變革等有りては、上下民心動揺す可きを以て從來の情態を維持し度しと言へるに對して、外務卿は、外國との和約交戦等の外、國内の政治は凡て藩王に一任し、國體制度等從來の通たるべき事を言明したり。此の一言後に至りて、處分松田道之を繋縛するに至れり。使臣等大に悦び、一札を得て、後證に具へむとせしが、九月二十日遂に一札の覺書を出せり(下略)

引用:東恩納寛惇著『尚泰候実録』227~228㌻より抜粋。

この時の琉球藩使(與那原親方)と副島外務卿との交渉では”外国との和戦交戦のほか、国内(琉球藩)の政治はすべて藩王に一任し、国体制度などは従来の通りである”ことを言明したとありますが、実際の条文では「国体政体永久不相替」に関して言及していません。この時に条文に明記させず「その意は文中に含蓄されている」と突っぱねられたことが、琉球藩にとって大きなミスとなります。

東恩納寛惇先生のキツい突っ込み

今回の案件に関しては東恩納寛惇著『尚泰候実録』の221㌻から231㌻を参照に記事を作成しましたが、この案件に関する寛惇先生のキツい突っ込みがツボですので紹介します。ブログ主も寛惇先生の意見に全面同意します。

按ずるに、政體云々の事は、確かに外務卿の失言にして、既に駟(し)も及ばざらむとせしが、僅かに文面を糊塗して、一條の活路を得たり。後ち明治八年松田處分間交渉の時に當つても此の覺書は單に藩制の内治に關するものにして、決して國政の外交に係るものにあらざるを主張して、巧に是の活路を利用し、大久保内務卿も亦文面に明證なき事實は採用するに及ばずと聲援したり。噫(ああ)有司等、何を以てか事の是に及ぶべきを豫知し得ん。又按ずるに琉球藩は、明治五年朝廷より册封せられたものなるを以て、藩屏たる職責を辱めざる以上、廢藩の處置あるまじと云えるは、最も辭令の妙を得たるものにして、之れを換言すれば、藩王位の與奪は、大權の發動に因る。然らば琉球藩にして、朝命に抗する等の所爲ある時は、直に廢藩の處置に及ぶべしと云ふ反語に過ぎざればなり。

引用:『尚泰候実録』229~231㌻より抜粋

是に由りて之を観 (み) れば、日琉交渉は明治政府側が一枚も二枚も上手だったとブログ主は実感せざるを得ないのです。(終わり)


【原文】

〇明治六年九月二十日琉球藩ヘ達書

一 藩王閣下昨年特命ヲ以テ册封ヲ賜リ永久之藩屏ト被仰出候ニ付テハ朝廷ヘ抗衡或ハ殘暴之所業アリテ庶民離散スル等之事アルニ非サレハ廢藩之御處置ハ固ヨリ有之間敷候

一 藩王敎育向行屆キ刑措數十年之由其任職ヲ不辱感心之事ニ候益庶民愛護永年被致貫徹度事ニ候

一 先年於其藩各國ト取組之條約原書被差出候ニ付向後藩難ヲ醸シ又ハ不爲ニ相成取斗ハ決シ而無之候

一 佛米蘭之外其藩於而條約不取結國ト雖朝廷於而條約旣濟之各國船艦其藩ヘ渡來候節ハ當藩ヨリ出張セル官員之指令ニ遵ヒ佛米蘭ト結ベル條約ニ照準シ厚ク處置可被致候

右之件外務卿副島種臣ヨリ致承知候爲御心得此段申進候也

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