復帰協が残した教訓 – その3 凋落

(続き)今回は昭和35年(1960)年4月28日に発足した復帰協の活動が、復帰後に凋落の一途をたどった件について言及します。昭和49年(1974)12月26日付琉球新報朝刊9面に衝撃的な記事が掲載されていましたので全文を書き写しました。

理解の補助として、昭和44年(1969)11月21日の「佐藤=ニクソン共同声明」により、昭和47年(1972)内に日米安保条約を完全に適用する本土復帰が決まったことで、復帰協の活動は著しく政治色を帯びるようになります。その結果として一般市民が復帰協が主催する大衆運動に参加しない傾向が年々強くなっていきます。

ただし加盟団体の動員力によってデモや県民大会などの活動を継続することができましたが、昭和47年(1972)5月15日の復帰後は、運動方針の内部対立が勃発して、復帰協は迷走します。それを踏まえて読者のみなさん、ぜひ記事をご参照ください。

復帰協ジリ貧に混迷 / 内部対立、総会も開けず

財政面で大きなピンチに直面

復帰協、といえば、戦後沖縄の大衆運動を第一線で担ってきた文字通りの主役。ところが、復帰後、運動方針をめぐって混迷状態が続くうちに、予算の確立が出来ず、最近では電話料金も支払えないため、通話も差し止められるありさまで、事務所の家賃も滞納、仲宗根悟事務総長もよると「追い出しをくらいかねない」ほどの没落ぶり。かつては10万人規模の県民大会を軽くこなした復帰協だが、内部対立もさることながら、まずは財政面から大きなピンチに追い込まれている。

仲宗根事務局長打開せねば…

仲宗根事務局長によると、復帰協がこうまでジリ貧状態に追い込まれた大きな原因は、組織体制の確立に基づく予算編成がうまくいかないからだという。復帰前は正式な総会にかけて予算が組まれていたが、復帰後はこの間の闘争の総括と今後の運動方針をめぐって内部の対立があり、一度も総会が開かれずじまい。

復帰協加盟団体は、県労協をはじめ、沖教組や政党、沖婦連、PTA連合会、遺族連合会などと幅広く約50団体。復帰前の予算は、これら加盟団体からの会費をカンパ、それに各市町村からの復帰運動に対する補助金でまかなわれ、年間約2万㌦(7百万円)の通常予算。その他、4.28闘争や大きな闘争毎に各団体から徴収される特別分担金など財政的な裏づけをもって復帰運動や反戦、基地撤去闘争など大衆運動を進めてきた。

しかし、総会が成立しない復帰後の予算はゼロ。とりあえず各団体の従来通りの会費を活動、運営資金に充て、急場をしのいでいるというものの会費だけでは復帰前の予算の半分。「復帰後は市町村の補助金も打ち切られ、本土からのカンパ金も少なくなったため、会費だけではどうしようもない。会費の値上げなど考えられるが、総会が開かれないことには…」と事務局長は苦しい胸のうち。

復帰から2年半、こうした状態が繰り返されて、ついには電話料金も3か月支払えないほどニッチもサッチもいかず、さる19日には通話がストップ。月4万円の家賃もやはり3か月分たまっているといい「近いうち追い出されるかも知れない」とさえない仲宗根事務局長だ。また、こうした事情もからんで2人いた事務員もやめていった。同事務局長はこれまで自腹を切って何度かやりくりしてきたというが「もうどうにも…」とお手上げの恰好。

「復帰後、連日のように多くの問題が出ているが、電話も切られ、事務にも支障をきたすような状態ではとても事態に対応できない。復帰協が十分に機能し得ない点では事務局も反省する。だが復帰後の問題を県民全体が問い返して、現状の混迷を打開せねばー」と仲宗根事務局長は総会の早期開催、復帰協立て直しの必要性を説いていた。(昭和49年12月26日付琉球新報9面)

ブログ主はかつて大衆運動の花形的存在の復帰協がここまで落ちぶれていた事実を知り大きなショックを受けました。参考までに凋落の経緯をまとめると

1.昭和44年度の活動方針の転換が、結果として一般市民を復帰協から遠ざけてしまったこと。

2.昭和47年5月15日の本土復帰によって、市町村からの補助金が打ち切られ、財政面でピンチに陥ったこと。

3.しかも加盟団体の内部対立が先鋭化し、復帰協に求心力がないことが世間に知れ渡ったこと。

になりましょうか。いわば一般市民や市町村、そして加盟団体から事実上の “三行半” を突きつけられたのです。だがしかし、ブログ主は復帰協がここまで落ちぶれてしまったのは彼らの “被害者意識” が強すぎたのが一番の原因と考えています。次回はこの点について言及します(続く)。

 

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