復帰協が残した教訓 – その4 結末

(続き)過去3回の記事において、復帰協の経緯と凋落の原因についてブログ主なりの意見をまとめてみましたが、今回はさらに深掘りして、なぜ復帰協が沖縄社会から(急速に)フェードアウトしたかについて言及します。

ブログ主が確認した限りですが、復帰協の活動方針には明らかな共通点があり、それは

われわれは被害者である

という強烈な被害者意識が根底にあります。結成当時の昭和35年(1960)年は、沖縄戦の記憶が鮮明なので、被害者意識が強くなるのもやむをえませんが、前に言及したとおり、「(我々は被害者なのだから)我々の要求は飲むべきである」との抗議活動は、結果として “相手の立場を考慮しない” 独善的な態度にならざるを得ません。

しかも、昭和44年(1969)年から活動方針を大きく展開します。大雑把に言えば「日米安保条約適用下での復帰には反対する」という、いわば復帰協が「復帰に反対する」というややこしい状態になります。正確には復帰には反対ではなく “現行案での復帰には反対” ですが、そうなると日米両政府と復帰交渉を進めている琉球政府の方針と明確に対立することになります。

そこで政治的な交渉を行うことなく、デモ等の大衆運動に特化した活動方針が、結果的に一般市民を復帰協から遠ざけることになったのです。誤解を恐れずはっきり言えば、当時の琉球住民は革新共闘会議の主張する「即時無条件全面返還」が非現実なことを十分理解した上で、米軍基地付き復帰を進める琉球政府の方針を黙認していたので、復帰協の唱える一連のスローガンを冷ややかな目で見ていたのは間違いありません。

それだけならまだよかったのですが、常に “被害者ポジション” で活動を展開する団体が、一転して加害者になったときに取った態度が一般市民の復帰協に対する見方を一変させたのです。昭和46年(1971)11月10日に復帰協が主催したゼネストで警察官が殺害した事件に対して、復帰協は会長談話で

機動隊員が死んだことと復帰協とは直接関係ない

と発表し、しかも「機動隊員の過剰警備は問題だ」と言及し、ことさらに被害者ポジションアピールしたことで一般市民の顰蹙を買ってしまったのです。

昭和40年8月、佐藤栄作首相来琉の際、復帰協が宿泊先の東急ホテル前でデモを行った案件で、喜屋武真栄会長(当時)は翌日東急ホテル内で佐藤総理に面会して、一連の混乱について正式に謝罪しました。喜屋武会長の謝罪については復帰協内部や加盟団体からも批判の声が上がったのですが、この時は団体内にも冷静な行動を取る余裕があったのです。

それが6年後の沖縄ゼネスト時の不祥事の際は、事件の徹底的に責任を回避し、しかも被害者アピールを行うまでになり下がってしまったのです。ハッキリ言うと被害者ポジションで活動し続ける個人や団体が “加害者” になったときの典型例そのもので、言い換えると “本性をさらけ出した” わけであり、翌年の本土復帰以降、市町村や一般市民、挙句の果てに加盟団体から “これ幸い” と切り捨てられるのも当然なのかもしれません。

復帰協の結成から全盛期までの躍進、その後の凋落は歴史的教訓の宝庫です。大事なことなので繰り返しますが、常に被害者ポジションで活動する個人や団体が、一転して加害者になったときに、どのような態度を取るのか。

少なくとも復帰協の真似はするな

オール沖縄会議に声を大にして伝えたいブログ主であります(おわり)。

 

 

 

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