琉球古代史の難問

ここ最近ブログ主は血縁カリスマの考察のために、『中山世鑑』などの史料を中心に琉球古代史についてチェックしています。よく考えてみるとブログを運営して3年経過しましたが、琉球古代史はあまり触れてきませんでした。その理由が ① 四書五経など朱子学の知識が足りないこと、② 漢文や読み下し文の史料を読みこなす力が不足していたこと、③ そしてなにより琉球古代史は地雷原そのものなので、うかつに手を触れるのは危険かなと思ったからです。

今回は「これならたぶんだいじょうぶだろう(棒)」という気持ちでブログ主なりに琉球古代史を考察します。それは沖縄県民なら一度は聞いたことのある舜天王の即位物語についてですが、実はここに日本史との決定的な違いを見ることができます。試しに羽地朝秀著『中山世鑑』からその部分を抜粋しますのでご参照ください。

(中略)その後、天孫氏25世の治世に、逆臣利勇という者がいた。若い頃から主君に寵愛されて近侍として仕え、壮年になると国政を任され権勢を誇ったが、ついには主君の位を簒奪する野心が芽生え始めた。ある時、酒に鴆(ちん)という猛毒を入れて、薬酒と偽って主君に進上した。主君のご運も尽きて、毒酒とは夢にも思わず召し上がり、間もなく血を吐いて亡くなってしまわれた。これに利勇は大いに喜び、自立して密かに中山王と称した。

浦添按司尊敦はこれを聞いて、

「伝え聞くところによると、湯武は臣として主君を討ったが、これは中庸の道であったといわれている。しかし、我が朝の利勇は弑逆の大罪を犯し、天にも見捨てられ、人望も無い者であるのに、これを討たないのは亡君の芳恩を忘れることになる。それでは後世の嘲笑を招くだろう。『君子は小人に与せず、進む道は同じくせず』との言葉もあるのに、私がどうしてつまらぬ人に仕えることができようか。父為朝の形見はこの時にこそ用いるべきなのだ」(中略)

引用:諸見友重訳注『中山世鑑』52~53㌻

その後の舜天の活躍は割愛しますが、めでたく逆臣利勇を討伐した後の彼の言動は以下参照ください。

(中略)時の王利勇も、自らは戦う心構えだったが、敵勢のなすがままの状況に、ついに、妻子を刺殺して、自らも腹を切って果てた。

この結果、浦添按司は大いに諸侯を集めて、

「今、私は不肖の身で兵を起したのは、君を殺して位を奪おうとしたのではない。仁義に反した利勇を討ったのである。天下は一家の所有物ではない。ただ徳の高い立派な人物のみが天下を定め治めるべきなのである

といって三度諸侯に譲られた(中略)

引用:諸見友重訳注『中山世鑑』54㌻

ここでちょっと待てとツッコミたいのが太字のセリフです。「仁義に反した利勇を討ったのである」のセリフは理解できますが、そのあとの「天下は一家の所有物ではない。ただ徳の高い立派な人物のみが天下を定め治めるべきなのである」の発言は明らかにおかしい。主君の芳恩に報いるなら、利勇を討つだけではなく毒殺された天孫氏25代王の子ども、あるいは血統の人物を王位につける必要があるからです。そしてこの点が日本史との決定的な違いになります。

皇位継承は血統が最優先

ちなみに日本史における皇位継承は明らかに血統最優先です。平泉澄著『物語日本史(上)』の第10章 「継体天皇」を参照するのが一番わかりやすいので該当部分を抜粋します。

皇統

崇神天皇より景行天皇を経て、応神天皇の御代に至り、武力も盛んであれば、徳化も厚く、国家の実力は充実していったが、その後、八、九十年もたつと、いろいろの事情のために、朝廷の威厳も動揺し、海外での勢力も衰えてきました。清寧天皇に御子がなく、このままでは皇統が絶えるのではないかと心配されたのが、危機の一つでした。その時、山部連(やまべむらじ)の先祖小楯(おだて)という人、官命を帯びて播磨(兵庫県)の国へ下り、赤石郡(明石郡)の屯倉(みやけ)を管理している志自牟(しじむ)の家に新築祝いに招かれて、酒宴に出席しました。酒酣にして、人々は次々に起って舞いました。竈の前で火を焼いている少年が、二人ありました。その二人が、

「兄上先に舞ってください」

「いやあなたが先に舞われるがよい」

と譲り合っています。人々はそれをおもしろいと思って注意して見ました。ついに兄が舞い、次に弟が起ちました。起って舞いました、その歌

もののふの 我が夫子の

取り佩ける 大刀の手上に

丹かきつけ 其の緒には

赤幡をつけ 立てし赤幡

見ればい隠る 山の三尾の

竹をかき苅り 末おしなびかすなす

やつをの琴を調ふるごと 天下治め給ひし

いざほわけの 天皇の御子

市辺の 押歯の王の

奴末

歌の意味は、「美々しく着飾った武将の、腰には大刀を横たえ、傍には赤旗を立てた勇ましいいでたちを見れば、悪人ども恐れて逃げ隠れるごとく、威厳をもって国民に対し給い、また山に生えている竹を切ってその本を手に取り、その先端を自由に動かすように、国民に号令し給い、八絃の琴をしらべるように、全国民の心を一つにまとめ給うた履中天皇の皇子、市辺之押歯王の子であるぞ、吾は」といわれたのです。耳を澄まして聴いていた小楯、驚くまいことか、

「さては履中天皇の御孫であらせられたか」

と、座敷から転り落ちるように下へ下り、

「サァ退いた、退いた」

とほかの人々を追い出して、御兄弟を正座に請し、感動のあまり、御二人を左右の膝の上に抱いて、うれし泣きに泣くのでありました。さっそく都へ御報告申し上げる。都から御迎へが来る。御二方は、かようにして皇統をお継ぎになるのであります。御兄尊が先に即位されるのが順序ですが、歌をよんで御身分を明かされた功績によって、御兄尊たっての御勧めで、まず御弟尊がお立ちになり、これを顕宗天皇と申し上げます。その次に御兄尊即位になり、仁賢天皇とおなにりなりました。

やがてまた一つの危機がおとずれてきました。仁賢天皇の皇子武烈天皇、御子がないままに御かくれになったからであります。その時には、大伴金村が、物部麤鹿火、巨勢男人などの重臣と相談をして、皇室の御血統を四方に求め、ついに越前(福井県)の三国から男大迹王をお迎え申し上げました。これを継体天皇と申します。御血統は、応神天皇五世の御孫でした。そして武烈天皇の御姉手白香皇女を皇后とせられ、その間に生れ給うたのが、のちの欽明天皇であります。(中略)

引用:平泉澄著『物語日本史(上)』77~79㌻より抜粋

この物語のポイントは皇統を継いだ顕宗天皇、仁賢天皇および継体天皇の徳性にはまったく言及していないことです。つまり

・琉球の王位継承は 徳性>血統

・日本の皇位継承は 血統>徳性

という違いがはっきり分かるのです。

権力交代の判断基準である徳性とは

羽地朝秀著『中山世鑑』は易姓革命の思想で編纂されていると言われています。たしかに堯、舜の禅譲や殷の湯王、周の武王の放伐物語を援用したと思われる箇所が散見されますが、そうなると権力者の姓を変える判断基準である徳性とは何かが問題になります。

儒教流に考えると、五常(仁・義・礼・智・信)を高いレベルで実践できる能力であり、徳性の持ち主は必然的に人望を得、天がリーダーとして振る舞うことを運命つけるということになりましょうか。それ故に徳性=カリスマと見做しても誤りではありませんが、古代琉球史を読むと舜天も英祖も内間金丸も有徳の士(=カリスマの担い手)として描かれています。

そうなると必然的に血統は二の次になります。いくら舜天が日本天皇の末裔で源為朝の実子とはいえ、血統は天孫氏の方がはるかに格上です。25代王が殺害されたあとに、その実行犯(利勇)を討伐するまではいいが、天孫氏の末裔を王位に据えないのは極めて不自然と思わざるを得ません。しかも25代王とその末裔が不徳の士であり、それ故に放伐に値する人物であることには言及されていないのです。

一番の難問はどうやって徳性があると判断するかですが、手っ取り速い方法は利勇さんのように「吾は有徳の士」と自称することです(『球陽』に記載あり)。利勇さんは残念ながら放伐されてしまいましたが、もしも舜天を返り討ちしたなら後の歴史家は彼のことを「湯武に匹敵する有徳の士」として持ち上げていたこと間違いありません。

権力の継承ルールが定まっていなかったから徳性が問題になった

ブログ主は『中山世鑑』を参照すると、古代琉球の社会では確固たる権力の継承ルールが定まっていなかったと考えています。著者の羽地朝秀自身は『中山世鑑』を読む限り長子相続が好ましいと考えていたようですが、実際の琉球古代史は放伐、放伐、アンド放伐の歴史ですし、第二尚氏だって内間金丸さんが王位に就いた際にどさくさまぎれに尚徳王の実子を殺害して血統を根絶やしにします

そんなことにならないように『警世の書』として『中山世鑑』は編纂されたと見做していいかもしれません。具体的には王位継承ルールが定まっておらず、且つ易姓革命の思想が否定できない以上、「悪い政治をすれば王家は危機に陥る」ことを羽地朝秀は著書を通じて後世の王族に訴えたかったのです。ただ残念なことに後世の王族がその主旨を全く理解できず、結果的に王家が廃されます。よくよく考えると

国家の一大事に精神を病んで首里城に引きこもる国王が”有徳の士”なはずがありません。

『中山世鑑』を読むと琉球王国の滅亡は必然だったのかなと思わざるを得ないブログ主であります。(終わり)

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