琉球王国はなぜ米仏蘭との国際条約に清国の暦法を使用したかの考察

先日、ブログ主は東恩納寛惇著『尚泰候実録』の351㌻(明治11年候36歳)の項目を読んでいたところ、同年10月7日付で在日清国公使の何如璋(か・じょしょう)が寺島宗則外務卿宛てに出した書簡についての記述に目が留まりました。その一部分を抜粋しますので、読者のみなさんぜひご参照ください。

10月7日、東京駐剳清国欽差大臣何如璋副使張斯桂、本国政府の命を含みて書を外務卿寺島宗則に遣(や)り、琉球問題に関して抗議する所あり。文の要に云く、琉球は清国海中群小島嶼(とうしょ)相輻(ふく)て一国を為す。境域限あり、物産饒(ゆたか)ならず、自ら給するに足らず、況や餘贏(あまり)あるをや、これを取って我がありとするに足らざる論を待たず。その地勢かくのごとしといえども、またよく自ら一国をなせり、かつ明の洪武年間より支那に隷属して封冊(=冊封)を受け、貢物を献し、外藩属部の形をなしたり。然れどもその政治は固(もと)よりその国政府の権内に委〔任〕し、あえて他より啄(ついばみ)を容れざるなり。大清の朝に至り、その国弱小なるを恤み、ますます親愛する所ありしに、彼(琉球)またますます大清を恭敬する甚(はなはだ)厚きを加へたり。成規(じょうき)に拠れば琉球の清に進貢するは2年に1回今に及んでかつて絶えず、その成規礼法は載せて大清宝典礼部省の章程中に在り、また冊封使の著す所、中山傳信錄、琉球人著中山史錄球陽記、日本人著琉民記等に詳(つまびらか)なり。我咸豊年間琉球は米佛蘭(=米仏蘭)三国と盟約を締結せしが、暦法文辞一に我が制に遵へり。琉球の業に已に清朝に属せるは欧米各国これを知らざるなし(下略)(東恩納寛惇著『尚泰候実録』352~353㌻より抜粋)

太字部分を要約すれば、咸豊年間(1851~1861年)に米仏蘭と締結した条約には清国の暦が使われているが故に琉球は清国に属していて、そのことは欧米各国も知っているはずだ、になります。ちなみに琉球修好条約(西暦1854年7月11日締結)の全文は『尚泰候実録』の84~86㌻に記載ありますが、結文には次のように記載されています。

合衆國全權欽差大臣水師彼理、以洋書漢書立字、琉球國中山府總理大臣尚宏勲、府政大夫馬良才、應遵執據、

紀元一千八百五十四年七月一日

咸豊四年六月十七日 在那覇公館立

当時の琉球王国は薩摩宛ての公文書には日本の暦法を、清国宛てや国内の文書には清国の暦法を使用していました。そうなると第三国相手の公文書(国際条約など)に清国の暦法を使用した事実故に(琉球王国は)清国に属しているという何如璋の言い分は筋が通っています。事実琉球側も”清国の外藩”という立場で米仏蘭と国際条約を締結しました。仮に独立国ならば『球陽』に記載されている通り「尚泰13年」でサインする筈です。

とある一部論客が「琉球は米仏蘭と国際条約を締結したイコール琉球王国は独立国だった」と主張しているようですが、日清以外の第三国との公文書に清国の暦法を使用する独立国が本当に存在していたのか、ブログ主は極めて疑問に思わざるを得ません。彼らにとって琉球王国は独立国でなければならない”おとなのじじょう”とやらを垣間見ることができる案件ですが、今回はこれ以上突っ込むことなく記事を終えます。


【資料】

・「琉球所属問題関係資料第八巻_琉球所属問題」から在日清国公使何如璋が寺島宗則外務卿に提出した書簡の全文を掲載します。

淸國公使ヨリ寺島外務卿宛 明治11年10月7日

琉球國ヲ復シ進貢ヲ阻止セラレサル様希望ノ件

大淸國欽差大臣何、副使張

照會事、査琉球國、爲中國洋面一小島、地勢狭小、物産澆薄、貧之無可貧、併之無可併、孤懸海中、從古至今、自爲一國、自明朝洪武五年、臣服中國、封王進貢、列爲藩屬、惟國中政令、許其自治、至今不改、我大淸憐其弱小、優待有加、琉球事我尤爲恭順、定例二年一貢、從無間斷、所有一切典禮、載在大淸會典禮部則例、及歴屆册封琉球使所者中山傳信錄等書、卽球人所作中山史略球陽志、並貴國人近國琉球志、皆明載之、又琉球國、於我咸豐年間、會與合衆國法籣西國荷籣國立約、約中皆用我年號歴朔文字、是琉球爲服屬我朝之國、歐米各國、無不知之、今忽聞貴國、禁止琉球、進貢我國、我政府聞之、以爲日本堂堂大國、諒不肯背鄰交、欺弱國、爲此不信不義無情無理之事、本大臣駐此數月、査問情事、切念我兩國自立修好條規以來、倍敦和誼、條規中第一條、卽言兩國所屬邦土、亦各以禮相待、不可互有侵越、兩國自應遵守不渝、此貴國之所知也、今若欺凌琉球、擅改章、將何以對我國、且何以對與琉球有約之國、琉球雖小、其服事我朝之心、上下如一、亦斷斷難以屈從、方今宇内交通、禮爲先務、無端而廢棄條約、壓制小邦、則揆之情事、稽之公法、恐萬國聞之、又不願貴國有此擧動、本大臣奉使貴邦、意在修好、前兩次晤談此事、諄諄相告、深慮言語不通、未達鄙懐、故特據照會、務望貴國待琉球以禮、俾琉球國體政體、一切率循章、幷不准阻我貢事、庶民以全友誼、固鄰交、不致貽笑於萬國、貴大臣辨理外務、才識周通、必能詳察曲直利害之端、一以情理信義爲準、爲此照會貴大臣、希卽據實照覆可也、順至照會者

右照會 大日本國外務卿寺島 光緒四年九月拾貮


・次は尚泰候実録より、明治11年東京在住の琉球藩の使者が英米蘭各国公使に提出した嘆願書です。この中にも条約締結時に清国の暦法を利用したことが記載されています。

是より先、三司官富川、與那原等、密に英米蘭各國公使に就いて現状を訴へしが英蘭公使は拒んで受けず米國公使は本國政府の指揮に從つて處置せむ事を答へたり。其の蘭國公使に送る所の書は左の如し。

具凜、琉球國法司官(毛鳳來、馬兼才)等、爲小國危急、切請有約大國俯賜憐鑒事、琉球國、自明洪武五年入貢中國、永樂二年我前王武寧受明册封爲中山王、相承至今、逈列外藩、遵用中國年號暦朔文学、惟國内政令許其自治、大淸以來定例進貢土物、二年一次、逢大淸大皇帝遣使册封嗣王、爲中山王、又時召陪臣子弟、入北京國子監、讀書、遇有漂船遭風難民、大淸國各省督撫皆優加撫䘏、給糧、修船、妥遣回國、自列中國外藩以來、至今五百餘年、不改、前咸豐九年大荷蘭國欽奉全権公使、大臣加白良來小國、互市、曾蒙許條約七款、條約中即用漢文及大淸年號、諒貴公使有案、可以査考、大合衆國、大法籣西國亦曾與敝國立約、其在日本則與薩摩藩往來、同治十一年日本卽廢薩摩藩、逼令敝國改隷東京、册封我國主、爲藩王、列入華族、事與外務省交渉、同治十二年日本勒將敝國與大荷蘭國、大合衆國大佛蘭西國所立條約書、送交外務省、同治十三年九月又强以琉球事務改附内務省、至光緒元年、日本太政官告琉球國曰、自今琉球進貢淸國、及受淸國册封、卽行停止、又曰藩中宜用明治年號及日本法律、藩中職官宜行改革、敝國屢次上書遣使求急日本、無如小力弱、日本決不允從、切念敝國雖小自爲一國、遵用大淸年號、大淸天恩高厚、許其自治、今日本國乃逼令改革、査敝國與大荷蘭國立約係大淸國年號文字、今若大淸封貢之事不能照擧行、則前約幾同廢紙、小國無以自存卽恐得罪大國、且無以對大大淸國、寔深惶恐、小弾丸之地、當地大荷蘭國不行拒棄待爲列國、允與立約至今感荷熱情、今事處危急、惟有仰伏、大國勸諭日本、使琉球一切照、闔國臣民戴德無極、除別備文稟求大淸國欽差大臣及大法蘭西國全權公使大合衆國全權公使外相應具稟求請

 

 

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