目覚めた “琉球人” の考察

前回の記事 “琉球人と二重思考” の中で、補足として「琉球人」のワードについて言及しました(下記参照)。今回はこの点についてとある名護市議のツイートを参照に、調子に乗って考察しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。

※参考までに琉球人のワードには “目覚めた” との意味も含まれます。(目覚めていない)沖縄県民の「対語」になりますが、この点については後日改めて言及します。

まずは、ブログ主が興味を覚えた名護市議のツイートを紹介しますので、一通り目を通してください。

とりあえず彼の “お気持ち表明” の真偽は置いといて、このツイートは「私も、自身が琉球人だと気づいたのは30歳過ぎてから。」と言明している点が重要です。大雑把に言うと、彼は20代までは琉球人の自覚がなく、30を過ぎてから “目覚めた人” になったのです。

重要なことなので繰り返しますが、琉球人のワードには “目覚めた” というニュアンスが多分に含まれます。それはつまり「目覚めていない何か」に対しての琉球人であって、誤解を恐れずにハッキリいうと琉球人は沖縄県民の対語なのです。それゆえに琉球人を自称するタイプは沖縄県民に対して目覚めよ的な言動に終始する傾向があります。なお、日本国は憲法19条により内面の良心の自由が保障されており、何に目覚めようが個人の自由として取り扱われますが、公序良俗に反する言動に終始した場合は、権力によって人権を制限されるケースもあります。

試しにまとめてみると、

琉球人:ヤマトによる琉球に対する構造的差別に目覚めた階層

沖縄県民:(ヤマトによる)構造的差別に気がついてない(哀れなあるいは遅れた)大衆

になりましょうか。それゆえに琉球独立運動は、目覚めた琉球人が「前衛」として遅れた大衆を導くという “解放闘争” と見做すこともできます。参考までに昭和の共産主義との違いを挙げると、(おそらく)琉球独立運動は暴力革命を前提にしていない点があります。

ただし、日本国が保障する内面の良心の自由を行使して琉球人に目覚めるのはいいとしても、こういう目覚め方はいかがなものかと思わざるを得ません。

それゆえに、日本国籍を持つ宜野湾民のブログ主は

もしかして目覚めないほうが沖縄県民として幸せな余生を全うできるのでは

とついうっかり本音を吐露しつつ、今回の記事を終えます。

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