米軍が最も恐れた男ですら恐れたこと

今回はひさびさに”不屈さん”ネタを提供します。昭和38年5月発行の『月間沖縄』の企画で瀬長亀次郎伝が3回にわたって掲載されていますが(現代人物評伝 – 人民党委員長 瀬長亀次郎)、ブログ主はその史料をチェック中に気になる記述を見つけました。ちなみに著者は仲宗根源和氏で戦前から戦後にかけての瀬長氏の経緯を詳しく記述していて、瀬長亀次郎関連の史料のなかでも一級品の内容です。該当部分を抜粋しますので読者のみなさん是非ご参照ください。

月間沖縄 – 1963年陽春特大号からの抜粋

瀬長君の首に十字架

私は沖繩タイムスに戦後はじめの頃の沖繩政界秘話を数カ月にわたって連載したことがある。その一部は「沖繩から琉球へ」と題する単行本として一九五五年に出版した。この本の第五十六頁に

当時瀬長君は胸に小さい十字架を細いくさりで首からつり下げていた。「ほう亀さんはクリスチャンだったのか」と私は不思議に思った。然しその後の瀬長君は別にクリスチャンでもないようだから、あの時は危険防止のおまじないとしてぶら下げていたのだろう、と私は解釈している。

と書いている。(中略)普通でもアゴの張った瀬長君が歯痛でますますアゴが大きくなっていたのと、細いクサリで小さい十字架を首からつっていた印象は今日でも私はハッキリおぼえている。

引用:仲宗根源和著『現代人物評伝 – 人民党委員長 瀬長亀次郎』76㌻

補足すると、昭和20年(1945年)当時、瀬長亀次郎氏は栄養失調と歯槽膿漏が悪化し羽地にある米軍の野戦病院に収容されていました。しばらくすると田井等(たいら)に設置された収容所に移動させられたのですが、彼は終戦の玉音放送を野戦病院のベッドで聞いたと証言していますので、仲宗根氏のエピソードは同年8月15日以降のことかと推測できます。

上記のエピソードの注意点は、仲宗根氏が「胸に小さい十字架を細いくさりで首からつり下げていた」ことと、その理由について「あの時は危険防止のおまじないとしてぶら下げていたのだろう」と言及していることです。現時点で亀さんがクリスチャンである史料は全くといっていいほど見つかっていませんが、では何故彼は首から十字架を吊り下げていたのでしょうか。

戦後クリスチャンが増加した理由

ブログ主はかつて沖縄戦後からアメリカ世にかけてクリスチャンが増加した理由について聞いたことがあります。終戦直後は治安が極度に悪化し、米兵による暴行事件が多発したのは良く知られていますが、その際に「私はクリスチャンである」と申告して十字架を見せれば暴行を免れたケースがありました。つまり米兵から身を守るためにキリスト教へ入信、あるいは手製の十字架を首からぶらさげる人がいたのです。

これはあくまで伝聞情報のため「そういうこともあったかもしれない」程度に考えていたのですが、沖縄学生会編『祖國なき沖縄』(1954年版)の中にも同様なエピソードがあり、そして今回の仲宗根氏の証言で終戦直後の実態を理解することができました。俄かだろうとなんであろろうが、そうでもしない限り身の安全が保証できない程治安が悪化していたのです。

不屈の精神が通用しない社会状況

御存じのとおり瀬長亀次郎さんには”不屈”のイメージがまかり通っています。平成29年(2017年)に公開された映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 – その名はカメジロー』は大ヒットを記録し、アメリカ世の時代における亀さんの活躍に改めて感動を覚えた人もいたかと存じます。

そんな不屈の精神で立ち向かった沖縄のヒーローも、終戦直後は首から十字架をぶら下げて身の安全を図らざるを得なかったのです。終戦直後の沖縄社会がどれほどヤバい状況だったか、当時の人たちが如何に「生き延びる」ことに貪欲だったか、米軍が最も恐れた男ですら恐怖した当時の社会状況は現代人には想像を絶するものがあります。

余談ですが、平成30年(2018年)10月23日にトルコ政府によって身柄を保護された安田純平さんですが、お肌や歯がきれいなところを見ると本当に3年も武装勢力に拘束されていたのかきわめて疑問に思わざるを得ません。瀬長さんですら精神的に追いつめた終戦直後の捕虜生活を考えると、もしかして安田純平さんはカメジローを超える”不屈”の精神の持ち主なのでしょうか。(終わり)


【参照】昭和27年4月23日付、沖縄タイムスに掲載された仲宗根源和著『沖繩から琉球へ – 戦後政界裏面史』の中に十字架のエピソードが記載されています。

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