めんそーれの考察 その2

前回の記事において “めんそーれ” の誕生についてざっと説明しましたが、今回は「海洋博における県民の合い言葉」がその後どうなったかについて言及します。結論を言えば全国的な知名度は上がりましたが、大城先生曰く「すべての文化運動は、沖縄のすべての庶民に通用するものでなければならないのだ。」の理想からはほど遠く、本島内でのみ利用されている感があります。

個人的な体験として、ブログ主は伊平屋・伊是名、あるいは粟国や渡名喜などを除き、結構な数の離島を訪れたことありますが、たしかに現地の港では “めんそーれ” は使われていない覚えがあります。いまでも覚えているがの旧空港時代の宮古島を初めて訪れたときに見た「んみゃーち」という言葉で、これが宮古ではいらっしゃいの言葉なんだよと教えてもらった件です。

ではなぜ(沖縄本島における)文化活動が地域的にも階級的にも広がりを持たない傾向があるのかを考えてみると、この点について大城先生の興味深い証言がありますので紹介します。昭和48年(1973)に刊行された『沖縄「風土とこころ」への旅」から該当箇所を要約すると、

・明治以来の皇民化教育の影響で、沖縄の方言を使うことに対する劣等感は、沖縄戦の結果解放された。ただしその解放感を(方言に対する)誇りにまっすぐにつなぐことは難しいものである。

・ただしその逆もある。海洋博を開催するにあたって採用された「めんそーれ」に対する侃々諤々の議論が起こった際、首里・那覇のユカッチュ出身の老人たちから「この言葉を採用した連中の育ちが知れるというものだ」という批評には(大城先生は百姓出身だから)大変恐縮した。

・そしてこの議論を聞いていた別の老人が、あとから

「あなたがたの話を聞いて私は、標準語というのは、沖縄の地方の人にとっては解放であったなあと、つくづく思いました」

と憮然とした表情で語った。その老人はヤンバル出身で過去に言葉で差別された経験を持つ。この言葉に(大城先生は)ギクリとせざるを得なかった。

というものですが、この話だけで “めんそーれ” が(事実上)沖縄本島限定になったのがよくわかります。つまり “めんそーれ” には本島内でも(那覇・首里以外の)地方民から見ると「傲慢さ」を覚えざるを得ないし、かつての上流階級の人たちからは「文化の不正確な継承」として侮蔑の対象となり、ましてや離島民からは「すべての文化運動が沖縄のすべての庶民に通用するものでなければならない」という発想そのものが本島民の驕りと受け取られてしまったのです。

ハッキリいって首里や那覇の言葉を使って「全沖縄の合い言葉」と言われても「なにこれ?」という感じであり、そして採用から50年経過した現在でも”めんそーれ” は単なる観光用語にしかすぎないのです。そして令和の今日では

ハイサイ

が同じ境遇をたどりつつあります。

ただし “めんそーれ” からは貴重な教訓も得られます。それは「標準語」という共通のプラットフォームを使って地域の文化を創出するのは構わないが、それを全県的なムーブメントにする必然性はどこにもないということです。言い換えると大城先生のように文化運動にイデオロギー的視点を持ち込むのは無駄だというわけであり、そしてそういうことを理解できない人たちが

ウチナーグチの復旧運動

をしていて、県民の現役世代から華麗ににスルーされているんだなと痛感して今回の記事を終えます。