公同会運動の考察 その5

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1896年(明治29)6月の爵位授与式(男爵)に於いて、宜野湾王子尚寅と松山王子尚順は、断髪し新調した燕尾服を着用して出席します。実はこの件は、爵位授与の話を聞いた奈良原知事と宮内大臣との計らいで特に断髪をせずに旧礼服のままの参内でもよかったのですが、父尚泰候からの命令で両王子は断髪かつ新礼服で授与式に出席することになります。

この話が琉球士族に広まるや、沖縄県内においても自発的に結髪(カタカシラ)を断髪する人が増えるようになります。そして両王子が名実ともに日本の華族となり、琉球王家の再興は不可能であることを満天下に示す結果となったため、頑固党の人たちは果てしない絶望感を味わうことになります。

日清戦争およびその直後において沖縄社会の雰囲気は一変します。大雑把に説明すると

開化党 日清戦争の結果、沖縄県内における勝ち組として、社会全体をリードする新しいエリート層としての地位を確立します。まさに我が世の春の状態ですが、その反面政治や産業経済を内地人(他府県出身者)に占められている現状に対する現状に大きな不満を持つようになります。

頑固党 日清戦争開始直後は、毎月朔日と十五日には社寺で戦勝祈願をするほど気合の入った応援を行ったのですが、清国の敗戦および王族の断髪のを報をうけて意気消沈、沖縄社会において負け組になることが確定します。

内地人(他府県出身者) 日清戦争中は自警団を組織したり、婦女子を疎開させたりと何かと緊張した毎日を過ごしていましたが、戦勝の結果で沖縄社会における勝ち組となり政治および産業経済上で確固たる地位を占めることになります。ただし一部日本人が浮かれすぎて沖縄県人に対して傲慢な態度を取るようになります。

人口の多数を占める農民 開化党のと頑固党の対立の影響は限定的なため、日清戦争の結果が社会生活に急激な変化をもたらすことはありませんでした。例外的に小学校への児童就学率が徐々に高くなってきます。戦勝の結果一番困惑したのはおそらく奉公人の階級と思われます。

日本の戦勝を一番歓迎したのは奈良原知事を始めとした沖縄県庁の職員の人たちです。清国の存在が沖縄県の制度改革の妨げになっているの明々白々で、その障碍が取り除かれたために改革を断行する絶好のチャンスが訪れたからです。そんな折に男爵を親授された両男爵を中心に政治結社が組織され、沖縄に特別制度を施行する運動が始まったのですから、沖縄県庁の職員の皆さんは「はぁ???」って気持ちになったこと間違いありません。(続く)


【関連項目】

公同会関連資料 http://www.ayirom-uji-2016.com/related-documents-of-koudoukai

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