ウクライナ問題の教訓

今月24日、8年にわたる内戦状態にケリをつけるべく、ロシアのプーチン大統領がウクライナへの軍事行動に踏み切りました。

ブログ主はもちろん国際政治の専門外であることは承知の上で、今回のウクライナ危機から “教訓” を見出しましたので、当ブログにまとめてみました。ぜひご参照ください。

今回のロシアとウクライナの紛争は、ソビエト崩壊後に独立した共和国においてロシア人が “少数民族化” したことに端を発します。具体的には民族語を公用語にしてそれを取得しないと公的な地位につけない状態になったのです。特にひどかったのが独立直後のバルト三国です。

ちなみにウクライナの場合も状況な同じですが、実は2代目大統領のレオニード・クチマ大統領(1994年7月~2005年1月)はウクライナ語が苦手で、そこは一生懸命練習をして、民族語を使いこなせるようになりました。このあたりの事情は国会議員たちも同じです。(ちなみに密室で政治家はロシア語で会話をしていたとの笑い話があります)

この案件に関しては現地の民族と少数民族になってしまったロシア系ともに言い分はありますが、ウクライナの場合はクチマ大統領がそのあたりを十分理解した上で、なんとか両者のバランスをとって国を統治していました。いろいろ突っ込みどころはあるでしょうか、西側につけばロシアが干渉し、ロシアよりになれば国内のウクライナ人が反発するという複雑な民族問題を抱えている地域で12年にもわたって国を統治したクチマ氏の手腕は高く評価されるべきです。

そのバランスが崩れたのが2004年のいわゆるオレンジ革命におけるヴィクトル・ユーシェンコ大統領(2005年1月~2010年2月)の登場です。彼はウクライナ民族意識を煽るしか能がない、まるでどこかの県知事さんを見ているかのような典型的な “行動する無能” なタイプで、大統領就任後に支持勢力と内ゲバを起こし、その結果、ウクライナ国内で多数派のウクライナ人と少数派のロシア人との対立が先鋭化してしまったのです。もちろん彼には両者を融和する政治的才能なんてありません。2010年の大統領選挙ではウクライナ人からも三行半を突き付けられてユーシェンコ氏は退陣します。

そして、その後に登場したのがヴィクトル・ヤヌコービッチ大統領(2010年2月~2014年2月)ですが、彼は日本史に例えるならば近衛文麿と鳩山由紀夫を足してさらに2乗したタイプの人物です。もちろん国内の民族対立を融和する力量はありません。最終的に親ロシア寄りの施政に多数派のウクライナ人の怒りを買って、その過程で大規模な汚職も発覚し、彼はロシアに亡命します。

彼の亡命はロシア政府を激怒させ、その後クリミア併合(2014年3月)につながりますが、その件については割愛します。そしてウクライナは8年にわたる内戦状態になり、今回ロシア軍の軍事侵攻を受けることになってしまいました。

今回のウクライナ危機は典型的な民主主義の失敗例です。具体的には

民族意識を煽り過ぎてしまったがために、国内における民族対立が収拾のつかないレベルで悪化

したことが、今回の惨状となったわけです。この点は旧ユーゴスラビア崩壊後のセルビア共和国と酷似していますが、過度に民族意識を高揚させるとろくな結果にならないことをウクライナは改めて世界に見せつけてしまったわけです。

この案件についてはEUも “共犯” ですから、彼らはなんらかのツケを払わないといけない立場なんですが、あまりにも打つ手が遅いので、ウクライナ側がイラついているのは気の毒としかいいようがないです。

今回のウクライナ危機の教訓はたったひとつ。それは己の支持を集めるために

民族意識の高揚を喧伝する輩には絶対に近づくな。

ただそれだけです。だがしかし、我が沖縄ではりうきう民族について語る輩のあまりのレベルの低さ(人格含む)に、民間から “敬して遠ざけられてる” 現実がある幸運に(ニライカナイの神に)感謝しつつ、今回の記事を終えます。

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