祖国復帰は沖縄県民自身が選び取った歴史です

新年明けましておめでとうございます。今年は、沖縄県が日本に復帰して50周年という節目の年でございます。

50年前に祖国復帰の瞬間を沖縄で迎えた方も多いと思います。一方、大学進学や就職によって故郷沖縄を離れ、ニュースなどで沖縄が日本に復帰した瞬間をご覧になった方もいらっしゃると思います。

50歳以下の皆様は、ご両親から復帰の思い出を聞いたり、新聞やテレビでその歴史を耳にしたり、学ばれたりした方もいらっしゃることと思います。

「祖国復帰」の意味の捉え方は、きっと百人百様であると思います。皆様方の歩んできた人生が異なれば、その捉え方も当然異なることと存じます。

しかし、その当時日本の敗戦により、米軍統治下に置かれた沖縄では、日本への復帰は県民の悲願であったということは紛れもない事実だと思います。

そして、その思いこそが祖国復帰運動の原点であり、沖縄の先達の熱い情熱と不屈の精神、そして、団結した活動があったからこそ、わずか27年という短い期間で実現できたのだと思います。私共尚家におきましても、当時沖縄の皆様方が日本に復帰を願われ、力強く活動なされた事に感謝申し上げる次第です。

50周年を機に、今一度、意味を考えていただきたい

50年が経過しようとしている今でも沖縄県は多くの課題を抱えています。もし、当時の沖縄の人たちが祖国復帰ではなく、米軍統治の継続を選んでいたら、今の沖縄はどのようになっていたのでしょうか?

きっと今の生活様式とは様々違っていました。ドルを使用して、車は右側を走り、英語が公用語になっておりましたでしょう。基地内で働かれている沖縄の方には珍しくない事かもしれません。私も米国に住んでいた時期もありますので馴染みがあります。

しかし、当時の沖縄の皆様方は日本人として祖国復帰を選択されました。琉球國が國として正式に無くなりましてから、143年の年月が経過しました。

一見しますと元王家と言うものが華やかに見え、私を慕ってくれます方々が多くいらっしゃり、アイデンティティーの拠り所として想って頂ける事は有り難く思います。一方、琉球國終焉の時に日本国の一員として生きる選択をした私共王家の祖先、そして子孫に対して現在でも「琉球國を捨てる選択をした」と言われる事もございます。

私は琉球國の王家直系の子孫であり当代の当主であります。尚家一門の宗主としての立場があり、様々な方面にご迷惑がかかるといけないからと、長らく表に立つ事もございませんでしたし、具体的な発言は控えておりましたが、私の見解と想いを少し述べさせていただきたいと思います。

私は琉球國の終焉の当時を生きた者ではありませんので、最後の王尚泰王がどの様なお気持ちの変化があり選択をなされたかは書物で推し量って参りました。とても難しい時勢柄の苦悩があられ、琉球の民が争いにより苦しむ事を何としてでも回避したいと、その一念で動かれていたのが垣間見えました。

一時は当時の清國に嘆願を出される親方がいたり、日本国に対しても様々な働きがけをなさっていました。世子が再び王位に就く事を望んだ時期もあれば、尚家の者以外でも、相応しい者がいるならば琉球國を治める事を託す様に願った事もあったようでした。

その全ては、琉球の民の皆様方が民族間の争いにより傷つく事を厭われたからだと思います。

廃藩置県により琉球國は日本の沖縄県となり、琉球の民は日本人となりました。時代は流れ、日本の敗戦により、沖縄県は日本とは引き離され、米軍統治下におかれました。しかし、沖縄の人々は、米軍統治下では無く、再び日本人として生きる選択を選ばれました。

当時の私はまだ成人したばかりで、その選択を静かに見守っておりました。何故なら琉球の民の方々が自ら選択をなさり、日本人である事を選んだ事は一人一人の背景は違いましても、「自ら選択をした」と言う部分において尊く思えました。

米軍統治下の沖縄では、沖縄の人々は、「琉球住民」と称されていました、それは日本人でも無い、米国人でも無い、かといって琉球国という国家はなく、国際的地位があいまいで、何人だかわからない根無し草のような存在として扱われていたのです。沖縄の未来を描くことも困難な時代だったと思われます。

しかし、沖縄の先人は、米軍統治下も琉球の独立も選ばず、自らの選択により日本への復帰果たしたのです。その結果、日本の一つの都道府県として様々な未来像を描くことが可能になりました。

日本に復帰したことにより、あらゆる課題を解決する能力が飛躍的に拡大したのです。

まだ不十分な点も多いかもしれませんが、これまでの50年間で、数多くの課題が少しずつ解決され、また解決の方向に向かう為に新たな問題が認識されはじめました。

皆様方の中には琉球民族としてのアイデンティティーを大切にしたいと願われる方々もいらっしゃるかもしれません。その想いは私も大切にして頂きたいと思います。しかし、琉球國は歴史の一部分であります。

昔琉球國があり、私共の祖先は琉球の民として生きてきたことがありましたが、新たに日本人として生きる選択をした、というのが現在までの歴史であります。その選択は琉球の民が持つ「平和を愛し争いを好まない」と言う誇りに基づいての選択だったのかと思います。

日本国は唯一の被爆国であり、私共は大東亜戦争時代に唯一の上陸戦を経験した者の子孫でもあり、沖縄の子供たちに争いを見せたくはありません。

歴史として琉球國を学び大切にしながら、先達の選択どおり平和を愛し、争いを好まない者として対話により異なる意見を持つ様々な方々と多様性の理解を深める努力を、これからも皆様と共にしていきたく存じます。それが、琉球のアイデンティティーかと思います。

私は沖縄県に生きる方々が同じ沖縄県民の方々に「米国とのハーフだから、内地とのハーフだから、と悪気無く言われ傷つきました」と言うお話を伺った事がございます。

米国人でも無く、沖縄県民としても認めてもらえず、また日本人として先達が生きる選択をしたのにもかかわらず、日本人としても見てもらえない。ハーフは本人が選択できる事ではありませんし、ハーフでありましても同じ日本人であります。

また沖縄を愛する内地の方々が沖縄の方々に中々受け入れて貰えない事も見てまいりました。沖縄を愛して下さる方であるのにも関わらず沖縄出身じゃないだけで、苦労がおありのようでした。

生まれは本人には選べない事ですから、私はお話を伺い申し訳なく思いました。この様な問題もその方の立場に立って考える事により今後理解を深める事が出来るのではないでしょうか。

私たちの沖縄は無限の可能性を秘めております。

皆様にも50周年を機に、今一度、沖縄県祖国復帰の意味を考えていただきたいと願っております。

沖縄県祖国復帰は沖縄県民自身が選び取った歴史です。祖国復帰の実現を成し遂げた先人の功績を、県民のみならず、日本国民があらためて思い起こし、深い感謝を忘れてはならないものと思っております。

どうか皆様方の力をあわせて沖縄の子供たちの新たな未来、ひいては日本の未来を築き上げることを心より切望し、新年のご挨拶とさせて頂きます。(尚衛 / 第二尚氏第23代当主 / 一般社団法人琉球歴史文化継承振興会代表理事)

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