突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – その2

今回も突っ込まざるを得ない記事について言及します。昭和37年(1962年)の暴力団抗争を調べるために当時の琉球新報の社会面をかたっぱしからチェックしたところ、現代人のセンスからはとても考えられない記事がわんさと見つかりました。アメリカ世の社会雰囲気を現代人が理解しろというのが無理ですし、できるだけ当時の状況を把握するよう努めていますが、正直言えば頭がおかしくなりそうな事件が多すぎます。前回の記事と違って今回は笑えない内容ですので、読者の皆様是非ご参照ください。

最初は昭和37年(1962年)1月の琉球新報から前年に発足した沖縄人権協会の下地会長が辞任を申し出たニュースです。その理由が暴力団(那覇派)の顧問弁護士を務めることになったからで、ここまでは問題ないでしょう。補足すると当時は那覇派、コザ派の告訴が多発して両派とも有能な弁護士が必要な状況でした。世間をお騒がせているアシバー連中とはいえ人権を保護しない理由にはなりません。該当の記事は下記参照ください。

1962年1月30日付琉球新報(夕刊)

下地人権協会長が辞意 – 暴力団事件弁護のため

沖縄人権協会の下地敏之会長は三十日辞意を表明、同日午後四時から教職員会会議室で開かれる同会理事会で正式に辞表を出すことになっている。

辞職の理由は同氏が、いま検察庁で取り調べ中の暴力団の弁護にあたることになっており、暴力一層の世論のある時、人権協会長がその弁護にあたるのはふさわしくないというもの。

下地敏之弁護士の話 私の本職は弁護士なのでそれをやめるわけにはいかない。暴力団の実態は事情を聞いてみると、世間にうわさされているものとはかなり違うものがあるので弁護を引き受けたがやはり人権協会の会長のままで暴力団の弁護をすることは好ましくないと思うので、このさい会長の職を遠慮させてもらいたい。

問題はそれに対する協会の回答です。この回答は当時だろうが現代だろうが明らかにおかしい。政財界のみならず人権団体ですら”癒着”を疑わざるを得ない当時の社会状況、実に恐るべしです。

1962年1月31日付琉球新報

下地理事長の留任求む – 人権協会理事会”辞任、理由にならぬ”

(中略)下地理事長は暴力団事件の弁護人になったことを理由に本人から理事会に正式に辞表が提出されたが、理事会では「辞任の理由にならない」との意見で一致し、下地理事長の留任を申し入れることになった。

つぎは昭和37年9月16日付琉球新報の特集記事『住みよい社会へ(3)』を紹介します。当時精神疾患を抱えている人が多数いたにも関わらず、予算の不足等でセーフティネットが充分でないことの批判記事です。実際に精神疾患者による悲惨な事件が発生していますので、記事の内容はごもっともですが、もう少し柔らかい表現を使ったらどうかと突っ込まざるを得ません。「つまり沖縄では100人に1.5人が○○○○なのである」という記述には絶句しました。読者の皆さんも気合を入れて該当記事をご参照ください。

ブログ主は現代に生まれて本当によかったと心底思いつつ、今回の記事を終えます。

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