親子共同の妾

今回は明治33(1900)年07月19日付琉球新報3面に掲載された “辻町ネタ” を紹介します。明治期の琉球新報を参照して印象的なのが、辻町に関する話題が不定期に掲載されていることです。それはつまり社会の関心が非常に高かったことの裏返しでもあります。

たしか麓純義(ふもと・じゅんぎ:沖縄第一号の弁護士)さんが、「それ等犯罪の裏には女と金と酒が潜でいることは今も昔もおんなじぢゃ」と証言している記事を読んだことありますが、よく考えると辻町はそれらがすべてそろっている場所です。今回はそんな辻町がらみの記事を紹介しますので読者のみなさん是非ご参照ください。

●親子共同の妾 世には斯くまで性根が腐ったものもあればあるものかな。遥々(はるばる)と七島灘(しちとうなだ)を渡って来て湯屋の前に住める五十路を越たる翁あり。年にも恥ぢず “辻三朱本” と云ふ所のウシと云ふて當年二十の別品を三四年以前に根引して手活の花と詠め居りしが、去年の中頃忰某(十七)に留主させて帰省したるところ、誰れより最初言ひよりしか其辺りまでは知らされども某とウシ人知れぬ中となり、素より浮(うい)た女の事なれは老木の松の葉陰よりも若木の櫻の花陰こそ匂ひゆかしと思ひ夢中になりて楽しみ居る中翁突然帰り来りしかば、二人は胸には驚けども左あらぬ顔して居たる処、隠れたるより顕はるゝはなく何時しか翁の耳に入り翁の怒り一方ならず忽ち勘当して宮古島に追ひやりたり。然るにウシは翁の勘当を恨み斯くなる上は何処までとも百里余りの波路を越へ其の跡を慕ふて宮古へ赴むき手○さけるも事とせず結句この方の気楽だとすましきって居る処に翁自ら渡島して引づり来り再び枕の塵を払はしめ居たるを十日はかりして翁の目を掠め又もや宮古へ逃げる積りにて船へ乗込み居る処を漸く引戻して猶ほも元の妾にして置ける由。此父にして此子ありと云ふべし。

明治33(1900)年07月19日付琉球新報3面

大雑把に説明すると、翁(50代)の息子が父のツミジュリ(抱え尾類)のウシさんに手をだしたのがバレて宮古へ島流し(勘当)されたのを、ウシさんが宮古まで追っかけていき、それを知った翁がウシさんを連れ戻すという修羅場案件です。

どこから突っ込んでいいかわかりませんが、父のツミジュリに手をだす息子は当時基準で文句なしのアウト判定ですが、逃げた女をはるばる宮古まで追いかけて連れ戻す翁の行動に、女に狂った男の執念を感じます。琉球新報記者が “此父にして此子ありと云ふべし” と突っ込みを入れた気持ちと、麓弁護士の証言どおり今も昔も女がらみの案件は(例え親子であろうとも)修羅場に発展するんだなと実感しつつ今回の記事を終えます。