選挙における候補者選びについて真面目に考えて見たところ

本日は平成30年5月22日、ためしに当ブログの開始日を再確認したところ平成28年5月19日スタートですので、なんと地味に3年目に突入していることがわかりました。そうなると何か“記念企画”なる記事を提供したいところですが、残念ながら全くといっていいほどアイデアが浮かんできません。そこで今回は無理に運営3周年突入企画など行わずに平常運転で記事を掲載します。

現在の沖縄の政局は、翁長雄志知事の体調不良により、任期満了前に知事選挙が行われる可能性があります。昭和53年7月20日の平良幸市知事(当時)が出張先の東京で倒れたときと状況が似ています。40年前は平良知事が倒れてから約3ヵ月後に辞任発表の流れでしたが、今回はもしかしたら辞任のタイミングが早まるかもしれません。

そこで知事選が行われたときに、21世紀の沖縄を考える上で、どのようなポリシーをもった候補者を選出すればいいのか?そのあたりを調子に乗って考えたところ、現時点で3つほど案が浮かびましたので当ブログにて掲載します。どちらかといえば「こういう候補者には投票してはいけない」という内容ですが、まず一番目に

民主主義=反ファシズムである

と考えている(あるいは支持者、支持団体がそう思っている)候補者には投票すべきではないと確信しています。これは沖縄戦後の政治家および支持団体が抱いていた民主主義に対する考え方の一つで、戦前の大日本帝国の政治体制を否定することが民主主義の第一歩であるというセンスが現在の政治家や一般大衆にも色濃く残っているのです。

昭和25年(1950年)前後の瀬長亀次郎さんの演説を読むと、「民主主義とは反ファシズムであります」と明言しています。ここでの反ファシズムとは枢軸国(ドイツ、大日本帝国、イタリアほか)を意味し、狭義には大日本帝国の政治体制を意味します。瀬長さんが演説をした昭和25年前後は第二次世界大戦後ですので、その演説内容にも説得力がありましたが、21世紀の現在においても当時のセンスで民主主義を語られても違和感しか抱くことができません。

近代デモクラシーは時限性と形式性を重視します。理由は簡単で、「我こそ民意」と唱える独裁者の出現を阻止しなければならないからです。民主主義は全体主義の変種であり、どうしても独裁者の出現を否定できません。だから為政者には形式と時限のセンスが強く求められますが、残念ながら民主主義=反ファシズムと考える人たちにはそういうセンスが希薄なのです。

「マイノリティー(少数者)の意見を重視こそが民主主義」の発想に至っては言語道断です。近代デモクラシーはルールにのっとった多数決主義で組織を運営します。そして少数意見の尊重はあくまで多数派が許す限り有効です。このセンスに欠ける識者が実に多いのは嘆かわしいところですが、残念ながらこれが現在の沖縄の実情と言えます。

結論を言えば、自分勝手に民主主義を定義する連中は論外、民主主義=反ファシズムのセンスの持ち主に対してはなるべく関わらないのが無難です。もちろん21世紀の我が沖縄の選良には相応しくない人たちで、(そういう連中は)黙って引退してくれれば社会にとって一番ありがたいなと思うブログ主であります。(つづく)

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