金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 新城喜史

(続き)金城「喜史さんは、情に厚くて面倒見がいい人でした。とにかく気前がよくて、物だろうがカネだろうが惜しみなく人にあげてしまうんです。そのうえ気さくで遊び好きで、社交性が抜群でしたから、若い連中に慕われて人気がありました。

その一方で、非常に感情の激しい人でもあったんです。空手はさほど強い方ではなかったですが、激しやすくて、何かあれば真っ先に飛び出していく行動的なタイプです。ターリーにもかわいがられて跡を継いだわけですが、喜史さんの性格の激しさが、沖縄ヤクザの歴史にかなり影響したと思います」

新城喜史(山原派首領) 沖縄の戦後派代表は「ミンタミー」

喜舎場朝信の隠退に伴ってコザ派の主流派を引き継ぎ、山原派を立ちあげたのが新城喜史である。新城は目がギョロリとして大きいことから「ミンタミー(大目玉)・ヨシミ」とも呼ばれていた。

コザ派が山原派になったのは、新たに首領となった新城が山原(北部山岳地帯の俗称)の出身だったからである。

狭い沖縄本島にも地域差があり、石川市あたりを境に中南部と北部に二部すると、社会的・経済的な比重は圧倒的に中南部の方に偏ってしまう。平野部が多く、古くから先進地域として開けていた中南部にたいして、山ばかりで耕地が少なく、他にさしたる産業もない北部は「枯木山原」とも呼ばれる後進地域だった。しかし、厳しい生活環境の中で育った山原出身者にはたくましさと根性があり、沖縄社会のあらゆる領域に有力者を輩出させてきている。

新城喜史はそういう山原の貧しい農家に生まれ、小学校も3年ぐらいしか行けなかった。食べるために故郷を離れ、少年時代から喜舎場朝信のグループに入ったそして、「戦果」をあげて分け前の戦果品をもらうと、それを貧しい故郷の村へ届けたという。

沖縄はユイマール(助けあい)の社会であり、シマンチュ(同郷人)意識が強い。いきおい、新城を頼ってコザへ出てくる同郷の若者が多く、彼はコザ十人組と呼ばれる幹部たちの中では最若手であったが、「ヤッチー(兄貴)」株の1人として他の有力者と肩を並べていた。

新城は那覇派首領の又吉世喜に二度、瀕死の重傷を負わせている。〔一度〕は西原飛行場跡に誘い出して7人がかりで暴行を加えたのだが、二度目は本土人のヤクザをヒットマンに雇って、背後から拳銃で撃たせた。

それが、以後30年にも及ぶ沖縄ヤクザの「いくさ世」の幕開けだったのだから、たしかに彼が抗争の幕を切って落としたとは言える。

二度の襲撃は、いずれも従来の沖縄のケンカの流儀ではなかった。それまでの沖縄の男にとっては、ケンカとは1対1で、素手で空手の腕を競うものだったが、新城はそんなことにはまったくこだわらなかった。勝つためには手段を選ばないというのが彼のやり方だったのである。

金城「私の想像では、喜史さんは那覇が欲しかったんだろうと思います。それをターリーに言ったかどうかは知りませんが、ターリーは喜史さんにはコザしかやらなかった。

喜史さんには喜史さんの良さがあるし、スターさんにはスターさんの良さがある。ターリーはそれを見抜いていて、片方だけを立てることはしなかったんです。だから、『コザは喜史に譲るが、那覇は那覇のスターに任せる』ということでしたが、那覇が復興してだんだん大きくなるにつれて、喜史さんの不満もふくらんできたんだろうと思います。

喜史さんはスターさんとは水と油のように性格が違うんです。

喜史さんはハデな人です。陽気で社交的で、気前もいいし面倒見もいい。懐に1000ドルあったらそれをポンと人にあげてしまって、自分は一文無しでも平気な顔をしている人です。だから人には人気がありました。もともとが『戦果アギャー(終戦直後、米軍の倉庫から物資を盗みだしたグループ)』ですから、沖縄人には違いなくても、昔の沖縄にはあまりいなかったようなタイプの人です。『アメリカ世(米軍統治時代)』にマッチした、戦後派のタイプの人間なんです」

コザ派は「戦果アギャー」の集団だから現実的であり、現実に役に立たないような原理原則論や道徳観念は持たなかった。密貿易をとおして本土のヤクザとも交流があったからでもあろうが、沖縄の精神的伝統のようなものに縛られもしなかった。コザ派はいわば沖縄青年の戦後派のような集団であり、その代表が新城喜史だったと考えてよいだろう。

新城は、那覇派の又吉世喜とともに沖縄連合旭琉会理事長の座に就き、そこで上原一家の銃弾に倒れた。「宿命のライバル」とでも言うべき新城と又吉であるが、その人生の軌跡は不思議なほどにピッタリと重なりあっている。(続く)

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