“ぼくのかんがえるさいきょうの” という病

今回は我が沖縄だけでなく、日本全国(特にネット上)ではびこる “ぼくのかんがえるさいきょう” の弊害について言及します。ちょっと意地悪な内容にはなりますが、その好例として沖縄県内における中国観の変遷について簡単に説明します。

実は我が沖縄における中国観は昭和47年(1972)年を境に大きく変わります。アメリカ世時代は昭和24年(1949)の中国革命の影響もあって無気味な国という印象が一般的でした。そして言論界も米国民政府を敵に回して中国共産党が支配する大陸社会の様子を積極的に報道する度胸はありませんでした。

その流れが一変したのが昭和47年(1972)年のニクソン訪中(2月21日)です。そして復帰後しばらくして琉球新報が中国大陸に特派員を派遣して大々的に特集記事を掲載します。ちなみにその時派遣されたのが山根安昇さん(元琉球新報副社長)であり、その後もマスコミ関係者だけでなく、幅広い階層の人達が中国共産党の招きによって大陸を訪問します。

問題は訪中後に掲載された特集記事であり、以前当ブログでも紹介した “売春は古い社会の古いものがたり” のように中国社会の一面を強調する内容となっており、必ずしも中国共産党が支配する大陸の現実を伝えるものではなかったのです。

だがしかし、これはしょうがない部分があって、決して彼ら(あるいは彼女たち)が中国共産党に阿(おもね)たわけではなく、彼らには無意識にある種の “理想像” を抱えており、その理想に合致する部分だけを取り上げて特集記事を掲載したのです。そしてそのことに気が付いていない、

これがぼくのかんがえるさいきょうの病です。

ちなみにブログ主は沖縄の知識人(マスコミ含む)には親中派はいないと考えています。つまり彼らは自分の理想を達成するために中国共産党を利用しているだけであり、用済みになればポイ捨てしてほかの理想像を追い求めるからです。事実、平成に入ってからの天安門事件やソビエトの崩壊後は、彼ら知識人の過去の言論は無かった扱いになってるじゃありませんか。この点は復帰後の朝鮮労働党マンセー世代(教職員会に多かった)にも言えます。

この事例から人間の思考力・想像力には “ある種の限界” があることが分かります。山根安昇さんや、昭和48年(1973)年に『中国の旅』という特集記事を掲載した外間米子さんだけではなく、我々はだれしも無意識の前提の元に社会の諸現象を判断しています。問題は、その点に気が付かず己の(内なる)理想を(正義として)喧伝し、それに対して異を唱える者を断罪する、あるいはネガティブな情報を流して批判する輩があまりにも多いことです。特にネット言論はその傾向は著しく、

自民党総裁選挙における高市早苗マンセー、河野太郎ガー

の書き込みを見ると、50年前の我が沖縄における中国共産党・朝鮮労働党礼賛の輩と“同類” が生息しているなと痛感したブログ主であります。

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