仮説『万国津梁の碑文』- その1

今回はちょっとまじめに”万国津梁の鐘の碑文”について言及します。あくまでも現時点における”仮説”ですが、『球陽』と碑文を照らし合わせてみると興味深いことに気がつきましたのでまとめてみました。

その前にこの碑文について言及すると、我が沖縄においてはあまりにも有名な一節

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾(あつ)め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となして、此の二つの中間にありて湧出せる蓬莱島なり。

を思い浮かべるかもしれません。だがしかし、これは碑文の一部であって沖縄県の公式サイトを参照に全文を書き写してみました。ただし公式サイトの記述は若干わかりにくい部分があるので、ブログ主独自で段落分けを試みました。ためしに読者の皆さんぜひご参照ください。

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾(あつ)め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となして、此の二つの中間にありて湧出せる蓬莱島なり。舟楫(しゅうしょう)を以て万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満し、地靈(=霊)人物は遠く和夏の仁風を扇ぐ。

故に吾が王、大世(おおよ)の主、庚寅(かのえのとら)に慶生す、尚泰久なり。茲に宝位を高天に承け、蒼生を厚地に育む。三宝を興隆し、四恩を報酬せんがために、新たに巨鐘を鋳て、以て本州中山王殿の前に就け、これを掛着(かいちゃく)す。

憲章を三代の後より定め、文武を百王の前よりあつめ、下は三界の群生を済(すく)ひ、上は万歳の宝位を祝ふ。辱(かたじ)けなくも、相国の住持渓隠安潜叟に命じて、銘を求む。

銘に曰く、須弥の南畔、世界洪宏たり、吾が王出現して、苦しめる衆生を済ふ、流れを截つ玉象、月に吼ゆる華鯨、四海に泛溢し、梵音声は震わし、長夜の夢を覚まし、感天の誠を輸(いた)す、堯風は永く扇ぎ、舜日は益ます明らかなり。

戊寅のとしの六月十九日辛亥の日。 大工藤原国善、住相国渓隠叟、これを誌(しる)す。

参照リンク:知事応接室の屏風について

非常に難解な文章ですが、大雑把にまとめると「尚泰久王が仏教を信仰したおかげで天下泰平になった」ことを賛辞しています。参考までに上里隆史先生の「目からうろこの琉球・沖縄史」には以下のように説明されています。

まず大前提として。この鐘は本来、貿易の繁栄をうたったことが主旨ではなく、「国王が仏教を信仰し、琉球が平和な世の中になった」ことを伝えた内容です。

参考リンク:再論「万国津梁の鐘」の真実(1)

つまり”琉球国は南海の勝地にして云々”の箇所はあくまでプロローグ(導入部)であって、碑文の本題は美辞麗句を尽くした”国王賛辞”なのです。まずこの点を頭に入れておく必要があります。

ちなみに尚泰久王が仏教を信仰し保護したことについて『球陽』に次のような記載がありましたのでご参照ください。

附 芥隱至國佛敎大興王建立諸寺懸巨鐘

景泰年間一僧至國諱承琥字芥隱日本平安城人也王命輔臣新構三寺一曰廣嚴一曰普門一曰天龍芥隱爲開山住僧輪流而居焉王受基敎禮待甚優而國人崇佛重僧由是王大喜景泰天順間卜地于各處多建寺院竝巨鐘懸于各寺朝夕令諸僧談經説法參禪禮佛以祈昇平之治雖漢明梁武亦無能出基右焉誠之我國佛法之明君也 – 卽今禁中或寺廟所有巨鐘乃景泰天順閒尚泰久王所鑄也 – (中略)

(読み下し文)景泰年間(西暦1450~1458)一国僧国に至る。諱は承琥、字は芥隠、日本平〔安〕城の人なり。王輔臣に命じ、新たに三寺を構ふ。一は広厳と曰ひ、一は普門と曰ひ、一は天竜と曰ふ。芥隠をして開山住僧となし、輪流して居らしむ。王其の教を受けて礼待甚だ優なり。而して国人仏を崇び僧を重んず。是に由り王大(い)に喜ぶ。景泰天順の間(西暦1450~1464)地を各所に卜して多く寺院を建つ。並びに巨鐘を鋳て各寺に懸く。朝夕諸僧に令し経を談じ法を説き禅に参じ仏に礼し以て昇平の治を祈らしむ。漢明梁武と雖も亦(また)よく其(の)右に出ずることなし。誠に此れ我が国仏法の名君なり – 即ち禁中或は寺廟所有の巨鐘は乃ち景泰天順の間尚泰久王の鋳る所なり – (中略)

*読み下し文は桑江克英訳注『球陽』を参照。

この文章を読むと、尚泰久王の仏教に対する熱意の高さがよく理解できますが、ここで素朴な疑問が沸いてきます。

なぜ尚泰久王はそこまで仏教にハマったのか?

次回の記事でこの点に言及します(続く)。

 

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